刺激と反応の間に [教育全般]



最近、ブログのアクセス数が急上昇しています。
どういうことかと思って、調べてみると、「創造学園大学」というキーワードに反応して、人がやってきているみたいですね。
「創造学園大学 ひどい」と、googleで検索をかけると僕のページがトップに来てしまいます。
そのページの下に「創造学園大学に息子を通わせている母親ですが・・」というページがあって、心が痛みました。
創造学園大学の学生の名誉のために申し上げておきますが、学生の皆さんは別に悪くはないですよ。でも、受験で楽をした分、大学の勉強と就職活動は頑張ってくださいね。

今日は僕の人生を変えるきっかけとなった考え方を紹介させていただきます。
その考え方は、スティーブン・R・コヴィー博士の「7つの習慣」から学びました。
初めて知ったときは衝撃的でしたね。
自分なりの考え方を差し挟む余地もない素晴らしい概念なので、ほぼそのままの形で紹介させていただきます。
コヴィー博士はこう言います。

「問題は自分の外にあるのだと考えるなら、その考えこそが問題である」

現代社会では、一般的に人は、条件付けや環境によって決定づけられています。
それらは3種類の決定論によって広く浸透しており、その3つとは以下のようなものです。

①遺伝子的決定論   ex「僕が短気なのは、お父さんからの遺伝だ」
②心理学的決定論   ex「子供の頃の両親の育て方に問題がある」
③環境的決定論    ex「自分の上司、妻、子供、経済、国政のせいだ」

このような理論は、パブロフの犬の実験に起因する「刺激と反応のモデル」に基づいています。
私達は常に、外界の刺激に対して「反応」しているんですね。
これらの生き方をコヴィー博士は「反応的な生き方」として否定しています。
もう少し詳しく見ていきます。
私達は、外界の刺激に対して、反応をしているのです。
どういうことかと言えば、
火を触った→熱い、梅干を見る→よだれが出る・・
これらは生理的な反応。
あるいは、
悪口を言われた→その相手に腹を立てる、絶望的な状況→あきらめる・・
こういう反応の仕方もあります。
これらはすべて外界の刺激に対して、自分の脳が「反応」しているのです。
フロイト学説の心理学によって教育された学説によれば、人は幼児期の体験によって人格と性格が形成され、基本的に人生の行方が決まってしまうといいます。
それは、広く信じられていた概念なのですが、ビクター・フランクルという心理学者は壮絶な体験をすることによって、その考え方を否定するにいたります。
フランクル博士はユダヤ人です。
第二次世界大戦時に強制収容所に送られ、筆舌に尽くし難い経験をします。
その地獄の中で、彼は究極の真理を発見するに至ります。
それは、「刺激と反応の間にはスペースがある」ということです。
本から引用します。

「ある日、フランクルは裸にされ、小さな独房に拘禁されてしまった。そこで彼はナチスの兵士たちが決して奪うことのない自由―人間の最後の大いなる自由―を発見したのである。看守達はたしかに彼のおかれた環境のすべてをコントロールすることができたし、彼の身体を思うがままにすることができた。しかし、フランクル自身は、自分の状況を客観的に観察することが出来る。「自覚」のある人間であった。彼の基礎的なアイデンティティーそのものは健全で、損なわれてはいなかった。だからフランクルはその状況下で自分はどう影響されるのかを自分で選択することが出来た。彼に起きた出来事、あるいは受けた刺激と、それに対する彼の反応との間には、彼の自由、すなわち反応を選択する能力が存在していたのだ。」

つまり、人間は「刺激と反応の間に選択の自由」を持っているのです。
これを知ったことは僕にとっては衝撃でした。
コヴィー博士は言います。
この選択の自由の中にこそ、人間の人間たる4つの独特な性質があると・・。
四つの性質とは、「自覚、想像力、良心、自由意志」です。
人間は他の動物にはない「自覚、想像力、良心、自由意志」という独特の性質を持っているため、刺激に対して、自分の反応を選択する自由があるのです。
それは例えばこういうことです。
悪口を言われた→(良心)→相手にもっと優しくしよう
絶望的な状況→(想像力)→ほかのやり方を考えてみよう
このような考え方を「主体性を発揮する」とし、第一の習慣(最も重要な習慣)として、位置づけられています。
自分の人生に対しての責任を放棄すると、反応的になります。
例えば、反応的な人の多くは周りの物的な環境に大きな影響を受けます。
天気が良ければ気分も良い。
けれども、天気が悪ければ、気分も悪くなり、遂行能力も低下します。
それに対して主体的な人は自分の天気を持ち合わせています。
雨が降ろうが、陽が照ろうが関係ありません。

エリナー・ルーズベルトは次のように表現しています。
「あなたの許可なくして、誰もあなたを傷つけることはできない」
また、ガンジーの言葉によれば、
「自分で投げ捨てさえしなければ、誰も私たちの自尊心を奪うことはできない」
と言います。
本当の意味では、自分の身に起こる出来事によって傷つけられるのではなく、自分がその状況を容認するという選択によって、傷を受けるということです。

反応的な人の言葉は自分の責任を否定します。
それは例えば、こういう言葉です。
「僕はそういう人間なんだよ。生まれたときからずっとそうだし、変えられない」
―自分は生まれた時に決定づけられている。だから、自分では何も出来ない
「あいつは本当に頭にくる」
―自分の責任ではない。自分ではコントロールできない外の要因が、感情を支配している
「できないよ。時間がないんだ」
―時間という制限が、自分をコントロールしている
「妻がもっと忍耐強かったら、家族はうまくいくのに」
―ほかの人の行動が、自分の生活や幸福を制限している
「やらなくてはならない」
―状況やほかの人によって、自分の行動が強要されている。選択の自由がない

要点をまとめるならば、以上のような内容です。
「7つの習慣」では、章の最後にこうまとめています。

「主体性の原則を30日間試すようにお勧めしたい。実際に行ってみて、その結果を見るだけでよい。裁く人より光を与える人になり、批判者より模範となる。問題を作り出す人でなく、問題の解決に貢献する人になる。結婚生活において、家庭において、仕事においてやってみてほしい。
他人の弱点について争うことをやめてみる。自分の弱点を弁護することもやめてみる。間違いを犯したときに、素直にそれを認め、修正し、それからすぐ学ぶようにする。他人のせいにしたり、彼らを批判したりする無駄なエネルギーを使わないようにする。コントロールできることに働きかけてほしい。自分自身を変えるようにし、自分のあり方に集中してみてほしい。」

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