個人的なお話 [ブログタイトルの由来]
少し私自身のことについてお話させていただいた上で、お断り申し上げなければならないことがあります。
ブログのあり方についてです。
過去に書きましたが、私はこのブログを書き始めた頃に転職をしています。
慣れ親しんだ塾業界を離れ、今は子供の教育とは直接関わりのない仕事をしているのです。
企業研修の講師が主な仕事となるのですが、内容は「マーケティング」、「営業」、「コーチング」、「リーダーシップ」など多岐にわたります。
どの分野の専門でもない私が、このようなお仕事をさせていただけるのは、まさに「人に何かを伝える」という点での過去の経験が私の「強み」になっています。
子供にわかりやすく伝えることを仕事としていたので、大人にわかるように伝えることは、子供よりは易しいと感じています。
(評価は子供よりも格段に厳しいですが・・)
逆に「弱み」は、それぞれの分野での専門ではないので、知識が全般的に不足していることです。
答えられない質問が出て来ないかとヒヤヒヤしながら、研修を行っているというのが正直なところですね。
私の理想像はニュースなどの解説で有名な池上彰さんです。
わかりやすく伝えるという点を「強み」としているとは言え、彼や同じようなレベルで仕事をしている方の解説に比べるとわかりやすさのレベルに雲泥の差を感じます。
というわけで、「わかりやすく伝える」という一点に特化して考えても、まだまだ半人前なのですが・・。
さて・・・
「わかりやすさ」を私自身の「強み」にしたいと考えた原点は学校の授業にあります。
先生の言っていることがわからなくて全然つまらなかったんです。
授業がわからないのは、少なくとも私だけではなかったはずです。
特にひどいと感じたのは大学。
大学教授は研究者なので仕方がないのかもしれませんが、完全に学び手を無視した自分勝手な講義に呆れ果てました。
(もちろん、すべてがそうだと言うわけではありません)
コミュニケーションにおける主役は受け手です。
集団指導なので、全員のニーズに応えるのは難しいのはわかります。
それにしても、あまりにひどいのではないか?
そうした怒りにも似た気持ちが、私が講師という職業を志す理由となりました。
自分がした嫌な思いを他の人にはさせたくないという気持ちですね。
だから、私自身の「強み」は一貫して、「わかりやすく人に伝えることが出来る」でありたいし、そのスキルを磨くことを、自分自身の最優先課題と位置づけています。
前職では、講師の講師という存在であり、また人前でプレゼンテーションをする機会もなかったので、そうした能力を身につけるには不十分な環境でした。
とは言え、学校の教師になるのは私の最も望まないところ。
元来、怠け者の私では、外部の方の厳しい目がなければ成長しないと思ったからです。
ある程度生活の安定が保証された環境では自分自身に対して甘えが出ると考えました。
さらには、集団塾の講師になるという選択肢もありますが、子供ではなく、大人の厳しい目にさらされる方が良いと考えました。
そこで選んだのが、社会人向けの講師という今の職業です。
現在、セミナー・研修業界はいわばデフレ状態にあり、能力のない講師は生き残ることが出来ません。
厳しい環境だからこそ、そこで生き残っている人たちの能力は高いです。
いわゆるプロの研修講師やコンサルタント、セミナー講師と呼ばれる方に説明上手な方が多いのは、そういうところに理由があるのではないかと考えています。
私自身もそうなりたいと考え、関西からはるばる東京までやってきたというわけです。
転職を決意した後、このブログを書き始めたのには、理由があります。
私が過去10年間ほど子供の教育に携わってきた中で得た知識を体系的に整理し、文章化して残しておきたかったというのがその一つ。
塾で働いている頃には、それこそ毎日のように新しい気付きがありました。
教育に関連した本を読んだり、情報も仕入れるので知識もそれなりにありました。
それをこのようなかたちで小出しに提供させていただいてきたわけです。
書くことはそれこそ無限にあるように思っていました。
しかし、今あらためて感じるのは現場にいないことで、そうした知識が風化してきているということです。
正直、「勉強法」というテーマで書き続けることに限界を感じ始めました。
書くだけなら書けるんです。
ただ、「数多くの似たようなブログがある中で、他の方のブログにはないような情報提供が出来るのか?」ということに対して自信がなくなったのです。
ブログを続けるだけなら、どこかの教育系のブログに書いてあるような内容を改変して、それを公開するという方法だってありえるわけですからね。
でも、それなら、私がやる必要はありません。
ここでしか書けないことを書けないのなら、書く必要はない。
そう思うわけです。
では、私自身の存在意義って何だろう?
ブログの存在理由は何だろう?
・・・・
どんどん本質的なことを深く突き詰めていきました。
正直に言えば、その答えがはっきりしないので、昨年はブログの更新もあまり気乗りがしませんでした(単純にサボっていたという部分もありますが・・)。
ビジョン=目的がないとモチベーションが続かないというのは、私自身過去の記事で書いてきたとおりです。
気付く人は気付かれていたと思いますが、「教育法」という言葉もタイトルから削除しました。
ブログに関しては、そうした葛藤がありました。
教育に関しての価値ある情報提供を行いたいというのが本来の目的なので、(他の方のものと比べて)それを出来ないのなら、公開し続ける必要もないのではないかと思っていたわけです。
しかし、最近になってあることに気付きました。
それは、教育をテーマにしたブログを書く上での私自身の「強み」は、言うなれば大人の教育を仕事として行っていることにあるのでは?ということです。
日々の仕事のなかで、小中学校や高校、塾といった子供の教育現場で働く人とは違った「気付き」を得ることが出来るわけです。
つまり、違う視点から教育の問題を眺めることができるわけです。
例えば、
「社会人、職業人あるいはプロと呼ばれる人たちが、どういうことに悩んでいるのか?」
「どういうスキルを身につけたいと願っているのか?」
「そのために足りない能力は何なのか?」
「能力を向上させる上で障害となっている理由は何なのか?」
「基礎学力のどういった部分が実社会で役に立っているのか?」
「一般に仕事がデキル人とは、どういう能力が高いのか?」
「学生時代をどのように過ごした人が成功しているのか?苦労しているのか?」
こうした問いかけに対する答えを考えるのが私の仕事です。
こういうことは、塾や学校の先生にはわかりません。
もちろん、耳学問から答えを用意することは可能でしょう。
でも、実際にそういう人たちと触れ合って、課題と向き合っている人にしか、書けない内容もあると思います。
そうした部分を書いていこうと考えています。
・・・ということで、ブログのテーマは「教育法」からは卒業させていただきます。
すでにブログの内容は変容しつつありましたが、ここであらためて宣言させていただきました。
「教育リテラシー」とは私の造語です。
リテラシーとは、「読み書き能力。また、与えられた材料から必要な情報を引き出し、活用する能力。応用力。」という意味ですが、私は「教育スキル」のようなイメージで使用してきました。
今後は「教育法」に限定されない広い意味で解釈していただければ幸いです。
今後ともどうぞよろしくお願いします。
新タイトル決定! [ブログタイトルの由来]
7月2日
いつも読んでいただいてありがとうございます。
昨日、めでたく学問部門で25位に入ることが出来ました。
ずっと25位以内を目標に頑張っていたので、ものすごく嬉しいです。
前にも書きましたが、本の出版を目標としてこのブログを開設しました。
教育に関して蓄積してきたノウハウはそれなりにあったのですが、いざブログとして書いてみると文章を書くことってこんなに難しかったのかと愕然としました。
文章を書くことは嫌いではなかったのですが、他人に向けて情報を発信することの難しさを痛感しております。いや、本当に難しい。作家やライターを心から尊敬します。
物書きについての定義として、
「簡単なテーマを読みやすく書けて三流」
「難しいテーマを難解に書けて二流」
「難しいテーマを読みやすく書けて一流」
こう思っています。
この定義で言えば、僕の場合、簡単なテーマを難解に書いているので四流です。
それでも読んでいただける方がいるのは、教育についてそれだけ問題意識を持たれている方が多いということでしょう。もっと読みやすく書けるように努力しようと思います。
今、僕が考えているのはベストセラー作家の文章の筆写です。
「これは!」と思う何冊かの本の一部を筆写してみて、文章作成のコツをつかむ作戦です。
しかし、ある程度は慣れだと思いますので、ブログの連載を続けていく中で作文が上手になることを願っています。というわけで、しばらくは読みにくい文章が続くかもしれませんが、気長に付き合っていただければ幸いです。少しずつ改善していきます。
さて、先日のブログでお話していましたが、タイトルが気になっているという件です。
この一ヵ月半、あれやこれやと頭を悩ましてきましたが、ようやく納得のいくタイトルが思い浮かびました。「次世代教育リテラシー」です。
リテラシーとは少し耳慣れない言葉ですが、「読み書き能力。また、与えられた材料から必要な情報を引き出し、活用する能力。応用力。」のことです。お父さんお母さんに「教育」の知識を読み解いて主体的に活用していただきたいという思いから名付けました。
YAHOOやGOOGLEで検索をかけてもほとんどヒットしないので、これでいこうと思いました。唯一、琉球大学の助教授が論文で「教育に賢く接する学習者である」と定義されていますが、これはまさに僕の想いとぴったりです。
というわけで、ブログのタイトルは
「次世代教育リテラシー ~奇跡を起こす教育法~」
これでいこうと思います。
今後ともどうぞよろしくお願いします。
いつも読んでいただいてありがとうございます。
昨日、めでたく学問部門で25位に入ることが出来ました。
ずっと25位以内を目標に頑張っていたので、ものすごく嬉しいです。
前にも書きましたが、本の出版を目標としてこのブログを開設しました。
教育に関して蓄積してきたノウハウはそれなりにあったのですが、いざブログとして書いてみると文章を書くことってこんなに難しかったのかと愕然としました。
文章を書くことは嫌いではなかったのですが、他人に向けて情報を発信することの難しさを痛感しております。いや、本当に難しい。作家やライターを心から尊敬します。
物書きについての定義として、
「簡単なテーマを読みやすく書けて三流」
「難しいテーマを難解に書けて二流」
「難しいテーマを読みやすく書けて一流」
こう思っています。
この定義で言えば、僕の場合、簡単なテーマを難解に書いているので四流です。
それでも読んでいただける方がいるのは、教育についてそれだけ問題意識を持たれている方が多いということでしょう。もっと読みやすく書けるように努力しようと思います。
今、僕が考えているのはベストセラー作家の文章の筆写です。
「これは!」と思う何冊かの本の一部を筆写してみて、文章作成のコツをつかむ作戦です。
しかし、ある程度は慣れだと思いますので、ブログの連載を続けていく中で作文が上手になることを願っています。というわけで、しばらくは読みにくい文章が続くかもしれませんが、気長に付き合っていただければ幸いです。少しずつ改善していきます。
さて、先日のブログでお話していましたが、タイトルが気になっているという件です。
この一ヵ月半、あれやこれやと頭を悩ましてきましたが、ようやく納得のいくタイトルが思い浮かびました。「次世代教育リテラシー」です。
リテラシーとは少し耳慣れない言葉ですが、「読み書き能力。また、与えられた材料から必要な情報を引き出し、活用する能力。応用力。」のことです。お父さんお母さんに「教育」の知識を読み解いて主体的に活用していただきたいという思いから名付けました。
YAHOOやGOOGLEで検索をかけてもほとんどヒットしないので、これでいこうと思いました。唯一、琉球大学の助教授が論文で「教育に賢く接する学習者である」と定義されていますが、これはまさに僕の想いとぴったりです。
というわけで、ブログのタイトルは
「次世代教育リテラシー ~奇跡を起こす教育法~」
これでいこうと思います。
今後ともどうぞよろしくお願いします。
奇跡を起こす教育法 [ブログタイトルの由来]
6月28日
こんにちは。
今日は少しお話が脱線します。
「奇跡を起こす教育法」というブログタイトルの由来についてお話しなければいけないと思いました。
色々な意味で誤解を与えてしまっている気がしたので・・。
エピローグとしてお話したかったのですが、そうも言ってられないと思いました。
いつも読んでいただいている皆さんはこう考えておられるかもしれません。
別に「奇跡」でも何でもなくて、一般的な学習方法であると・・。
これはほぼ事実です。
私の考える「奇跡」とは中国の竹のようなものかもしれません。
(この竹は5年後に25メートルに育つのですが、4年間は土の中で成長を続けていて変化が全く見えません。
最後の一年で25メートル成長するのです)
あるいは、バケツの水のようなものかもしれません。
(水がたまっているかどうかは外からは見えないが、あるときから急にあふれ出す)
天才のひらめきのようなものかもしれません。
(ニュートンは木から落ちるりんごを見て、歴史に名を残しました)
いずれにしてもその一瞬だけで手に入れるような栄光ではないのです。
たとえ、幸運に恵まれて「奇跡」のような成功を手にしたとしても、最も不幸になるのは、
子供自身でしょう。努力の積み重ねのない成功は砂上の楼閣です。
時には愚直とも思えるような努力の積み重ねの先にしか、本当の意味での成功も幸せもありません。
なぜなら苦労する過程こそが人生なのですから。
いずれ裏技的な学習方法にも踏み込んでいきたいとは思っています。
かつての私は、そうした技術を学ぶことに熱心でした。
人一倍努力することが嫌いだった私は何とかして楽な道を歩いていこうと必死に色々な方法論を考えてきたのです。大学受験も偏差値を一年で40近く上げるために、ある種のテクニックを使ったことは否めませんし、偏差値30台の男子高校生をトップクラスの私大に入学させたこともあります。
でも、私にせよ彼にせよ、その先に待っていたのは、幸せでも何でもなかったのです。
そこにあるのは、ある種の虚しさでしかありませんでした。
このブログの勉強法はまずは王道を説いています。
それは、学問を極める近道はないと言う事を最初に知ってほしいからです。
基礎を学んだ上で応用の技を身につけるのは非常に効果的ですが、最初からテクニックだけを学んでも本当の実力は身につきません。
だからこそ当たり前すぎるくらいの「勉強法」から公開しています。
世の中の成功者達が実践してきた習慣などについても紹介しようとは思っています。
しかし、それはあくまでもおまけです。
このブログのテーマは、「原点回帰」です。
昔は誰でも塾に行けるわけではありませんでした。
学校すらなかった時代もあります。
そんなとき、生きる術を教えてきたのは他でもない父親と母親です。
時代は変わりました。
消費者は自分のニーズに合わせて、様々な商品やサービスを手に入れることが出来ます。
商品は手にとって確かめることが出来ますが、教育は無形財産です。
企業は消費者のニーズを敏感に察知し、「何が売れるか?」という視点で次から次へとマーケットに新しいサービスを提供しています。無責任で善悪の判断もつかないような情報がネット上を飛び交っています。
個別指導塾なんてどの塾も悪の巣窟のような書かれ様です。
実際はいい教室もたくさんあるにも関わらず・・。
ここに新しい問題が生まれました。
選択肢があまりに多過ぎるのです。
何もない
何でもある
本質的には同じことなのです。
こういう時代だからこそ、父親と母親に教育の主権を戻さなければなりません。
そうすることで教育の格差は是正されると僕は考えています。
子供の「奇跡」のような成長を願う気持ちは誰でも同じです。
しかし、その「奇跡」を願う気持ちを利用されるようなことがあってはいけません。
塾で働いていたからこそ、それがいかに簡単なことかよく分かります。
親の愛情は時に盲目的なのです。
両親のたくさんの愛情と少しの教育知識で、子供にいつか必ず「奇跡」は起きます。
そう信じているから「奇跡を起こす教育法」というタイトルになったのです。
こんにちは。
今日は少しお話が脱線します。
「奇跡を起こす教育法」というブログタイトルの由来についてお話しなければいけないと思いました。
色々な意味で誤解を与えてしまっている気がしたので・・。
エピローグとしてお話したかったのですが、そうも言ってられないと思いました。
いつも読んでいただいている皆さんはこう考えておられるかもしれません。
別に「奇跡」でも何でもなくて、一般的な学習方法であると・・。
これはほぼ事実です。
私の考える「奇跡」とは中国の竹のようなものかもしれません。
(この竹は5年後に25メートルに育つのですが、4年間は土の中で成長を続けていて変化が全く見えません。
最後の一年で25メートル成長するのです)
あるいは、バケツの水のようなものかもしれません。
(水がたまっているかどうかは外からは見えないが、あるときから急にあふれ出す)
天才のひらめきのようなものかもしれません。
(ニュートンは木から落ちるりんごを見て、歴史に名を残しました)
いずれにしてもその一瞬だけで手に入れるような栄光ではないのです。
たとえ、幸運に恵まれて「奇跡」のような成功を手にしたとしても、最も不幸になるのは、
子供自身でしょう。努力の積み重ねのない成功は砂上の楼閣です。
時には愚直とも思えるような努力の積み重ねの先にしか、本当の意味での成功も幸せもありません。
なぜなら苦労する過程こそが人生なのですから。
いずれ裏技的な学習方法にも踏み込んでいきたいとは思っています。
かつての私は、そうした技術を学ぶことに熱心でした。
人一倍努力することが嫌いだった私は何とかして楽な道を歩いていこうと必死に色々な方法論を考えてきたのです。大学受験も偏差値を一年で40近く上げるために、ある種のテクニックを使ったことは否めませんし、偏差値30台の男子高校生をトップクラスの私大に入学させたこともあります。
でも、私にせよ彼にせよ、その先に待っていたのは、幸せでも何でもなかったのです。
そこにあるのは、ある種の虚しさでしかありませんでした。
このブログの勉強法はまずは王道を説いています。
それは、学問を極める近道はないと言う事を最初に知ってほしいからです。
基礎を学んだ上で応用の技を身につけるのは非常に効果的ですが、最初からテクニックだけを学んでも本当の実力は身につきません。
だからこそ当たり前すぎるくらいの「勉強法」から公開しています。
世の中の成功者達が実践してきた習慣などについても紹介しようとは思っています。
しかし、それはあくまでもおまけです。
このブログのテーマは、「原点回帰」です。
昔は誰でも塾に行けるわけではありませんでした。
学校すらなかった時代もあります。
そんなとき、生きる術を教えてきたのは他でもない父親と母親です。
時代は変わりました。
消費者は自分のニーズに合わせて、様々な商品やサービスを手に入れることが出来ます。
商品は手にとって確かめることが出来ますが、教育は無形財産です。
企業は消費者のニーズを敏感に察知し、「何が売れるか?」という視点で次から次へとマーケットに新しいサービスを提供しています。無責任で善悪の判断もつかないような情報がネット上を飛び交っています。
個別指導塾なんてどの塾も悪の巣窟のような書かれ様です。
実際はいい教室もたくさんあるにも関わらず・・。
ここに新しい問題が生まれました。
選択肢があまりに多過ぎるのです。
何もない
何でもある
本質的には同じことなのです。
こういう時代だからこそ、父親と母親に教育の主権を戻さなければなりません。
そうすることで教育の格差は是正されると僕は考えています。
子供の「奇跡」のような成長を願う気持ちは誰でも同じです。
しかし、その「奇跡」を願う気持ちを利用されるようなことがあってはいけません。
塾で働いていたからこそ、それがいかに簡単なことかよく分かります。
親の愛情は時に盲目的なのです。
両親のたくさんの愛情と少しの教育知識で、子供にいつか必ず「奇跡」は起きます。
そう信じているから「奇跡を起こす教育法」というタイトルになったのです。