読み手と聞き手 [コミュニケーション]


前回の記事に個人的な話として書きましたが、どうも私の頭は理解力に欠けているようで、子供の頃から人の話を理解するのが苦手でした。
本は理解できるのですが、話を理解するのが苦手だったんです。
この点についてピーター・ドラッカー教授が面白い指摘をしています。
少し長くなりますが、彼の著作からそのまま引用させていただきます。

「読む人間と聞く人間」
仕事の仕方について初めに知っておくべきことが、自分は読む人間か、聞く人間かである。世の中には読み手と聞き手がいるということ、しかも、両方できる人はほとんどいないということを知らない人が多い。自分がそのいずれであるかを認識している人はさらに少ない。しかし、これを知らないことがいかに大きな害をもたらすかについては、いくつかの実例がある。
 第二次大戦中、ヨーロッパ連合軍最高司令官を務めていた頃のドワイト・アイゼンハワーは、記者会見の花形だった。……彼はあらゆる質問に答えられ…状況と戦術の説明は完璧、言葉づかいさえ洗練されていた。
 ところが、その後大統領になったアイゼンハワーは、10年前に敬意を払っていた同じ記者たちから馬鹿にされることになった。まるで道化のようだった。質問には答えられず、関係のないことを口にした。脈絡のないことを文法さえ間違えて話した。
 しかし彼の文章能力は、若い頃、要求水準の高いマッカーサー元帥のスピーチを書いて認められたほど高かった。
 アイゼンハワーは、自らが読んで理解する読み手であって、聞いて理解する聞き手ではないことを自覚していなかった。連合軍最高司令官だった頃は、会見の少なくとも30分前には、広報担当者が記者の質問を書いて渡していた。そのため質問のすべてを掌握していた。
 ところが大統領としての彼の前任者、フランクリン・ルーズベルトとハリー・トルーマンは、どちらも聞き手だった。二人はそのことを知っており、自由質問による会見を楽しんでいた。ルーズベルトにいたっては、二人の有能な閣僚、ジョージ・マーシャル将軍とディーン・アチソンに口頭による小1時間の解説を頼んでいた。もちろん二人への彼の質問も口頭だった。
 アイゼンハワーは、二人の前任者と同じかたちで会見をしなければならないと思い込んでいた。だが、耳では記者の質問が理解できなかった。聞き手でない者のなかには、アイゼンハワーと同じ経験をしている者が大勢いる。
 その数年後、今度はリンドン・ジョンソンが同じく大統領として、アイゼンハワーとは逆に、自らが聞き手であることを知らなかったために、評判を落とした。
 自らが読み手であることを知っていた彼の前任者ジョン・ケネディは、歴史家のアーサー・シュレジンガー、一流記者のビル・モイヤースなど、最高の書き手を集めた。彼は、問題の検討に入る前に、必ず書いたものを要求した。ジョンソンは、それらの書き手をそのまま引き継いだ。彼ら書き手は、次から次へと書面を提出した。しかし、ジョンソンがそれらのものを一度も理解しなかったことは明らかだった。彼は上院議員だった頃はきわめて有能だった。だいたいにおいて、議員というものは聞き手である。
 自分が右ききか左ききかを自覚するようになったのは、先進国においてさえ一世紀ほど前にすぎない。左ききは、まともに扱われなかった。しかも、右ききに転向できた者はほとんどいなかった。彼らの多くは、単に、無能とされ、ときにはその心理的な負担のために、どもるようにさえなった。
 左ききは、おそらく10人に1人にすぎない。これに対し、聞き手と読み手の割合は、ほとんど五分である。そして、左ききが右ききになることが難しいように、聞き手が読み手になることも難しい。同じことは、逆についてもいえる。
 したがって、読み手として行動する聞き手はジョンソンと同じ道をたどる。逆に聞き手として行動する読み手は、アイゼンハワーと同じ運命をたどる。何事も行なえず、何事も達成できない。
~ピーター・ドラッカー著 「明日を支配するもの」より抜粋~

この一文に出会えたことは、私にとってあまりに大きな衝撃でした。
これまでモヤモヤとしていたことを、実例をあげて完璧なまでに説明してくれたのです。
高校に入っても、予備校に行っても、大学に入っても、授業は全然理解できない・・。
しかし、読解力に関して言えば、私事で恐縮ですが、人並みよりもかなり高いレベルにありました。
現代文や国語の文章題に限れば、偏差値が70を下回ることはあまりありませんでした。
大学受験では、古文の勉強を一切しませんでしたが、それは、その部分の得点を現代文でカバーすることが出来たからに他なりません。
(今にして思えば、これは非効率な学習法です・・)
要するに、私は「読み手」だったのです。
「読み手」の人間に話して聞かせることは、右利きの人間に左手で作業させるようなものです。
ドラッカーの指摘通りならば、私が授業を理解できないのは当然の話でした。
さらに・・これは、私の仮説ですが、「ハーマンモデル」の考え方を応用すれば、この偏りにも程度があると私は考えています。
脳の容量を10と仮定すれば、その配分のバランスが人それぞれなんですね。
ある人は、
「読む4:聞く6」かもしれませんし、
ある人は、
「読む1:聞く9」かもしれません。
「利き脳」の概念を以前お話させていただきましたが、それに当てはめれば自分の得意な理解の仕方に偏ってしまっているのではないかと考えています。
つまり、私の場合は極端に読む方に能力が偏っていたんですね。
例えば、このように・・
「読むための能力9:聞くための能力1」
私が授業を理解することが出来なかったのは、こういう理由かとまさに目からウロコが落ちた思いでした。
こういう観点から、子供の教育について考えることは非常に有意義です。
例えば、典型的な「読む」タイプの子供を集団塾に入れることはあまり効果がありません。
なぜなら、授業が理解できないからです。
こういう子供には自主学習か家庭教師のような個人指導が向いているでしょう。
あるいは、典型的な「聞く」タイプの子供に独学を勧めてはいけません。
自分では理解できないので、やはり勉強が嫌になってしまうでしょう。
正直に言えば、私は大学卒業までの22年間、ほとんど授業を聞いていませんでした。
大学にいたっては、ほとんど欠席か講義は寝ていましたし、予備校は自習室に通っているだけの毎日でした。
中学や高校の授業はいつもノートに絵を書いていました。
早く終わらないかなと時計ばかりを見ていたのを今でも鮮明に覚えています。
開き直っていたわけではありません。
頑張ろうという気持ちがなかったわけでもありません。
いつも新学期が始まる度に、今年こそはと授業に臨んでいたのです。
でも、それが出来ない自分にいつも罪悪感を感じていました。
罪悪感はいつしか劣等感になり、こと学業面に関しては私の高校3年間は無に等しい時間となってしまいました。
浪人生活でいくらか取り返したものの、あの3年間は私にとってあまりに大きな損失でした。
ドラッカー教授の言葉は、そんな私を少しだけ認めてくれたような気がします。
自分の子供が「聞く人間」か「読む人間」か?
両方とも出来るに越したことはないのでしょうが、どうしても偏りは出てしまうようです。
それに合わせた指導をすることで、本人は救われるかもしれません。
私はドラッカーの言葉を中学生のときに知りたかったです。
大人の勉強法についてもちょっとだけ触れておきます。
当然のことながら、「読む」タイプは読書による情報収集が向いています。
「聞く」タイプは講義やセミナーによる情報収集が向いています。
「聞く」タイプの人はおそらく読書が苦手で、テレビとかの方が好きです。
「読む」タイプの人はおそらくテレビをあまり見ません。
最近になってようやくオーディオブックというものが一般化してきました。
アメリカなどでは非常に評価の高い学習法なので、私も過去に試してみたことがあるのですが、全く自分には合いませんでした。
なぜなら、私は「読む」タイプだからです。
でもきっと、「聞く」タイプの人が、本の内容を学習するツールとしては優れているのだと思います。
どうしても本が読めないという人は是非試してみてください。

最後に一つだけ。
そんな私でも理解できる素晴らしい授業を行う先生が全くいなかったわけではありません。
一例を挙げれば、河合塾で世界史の講義を担当する青木裕司先生。
この先生は私がそれまでの18年間の人生で初めて出会った「私にも理解できる」講義をしてくれる先生でした(彼の歴史観には共感出来ませんが・・)。
初めて授業を受けたときの感動は今でも忘れることが出来ません。
大学に合格してからも、わざわざお金を払って予備校の授業を受けに行ったほどです。
片手で数えるほどしか出会えていませんが、このように「読み手」に偏ったタイプの人間の心を動かすほどの授業が出来る先生は確実に存在するのです。
そして、その出会った先生達の全員が、講師としては一流と呼ばれる人ばかりでした。
やはり、そのレベルを目指さないのは、講師としての怠慢だと私は思うわけです。

個人的なお話 [ブログタイトルの由来]


少し私自身のことについてお話させていただいた上で、お断り申し上げなければならないことがあります。
ブログのあり方についてです。
過去に書きましたが、私はこのブログを書き始めた頃に転職をしています。
慣れ親しんだ塾業界を離れ、今は子供の教育とは直接関わりのない仕事をしているのです。
企業研修の講師が主な仕事となるのですが、内容は「マーケティング」、「営業」、「コーチング」、「リーダーシップ」など多岐にわたります。
どの分野の専門でもない私が、このようなお仕事をさせていただけるのは、まさに「人に何かを伝える」という点での過去の経験が私の「強み」になっています。
子供にわかりやすく伝えることを仕事としていたので、大人にわかるように伝えることは、子供よりは易しいと感じています。
(評価は子供よりも格段に厳しいですが・・)
逆に「弱み」は、それぞれの分野での専門ではないので、知識が全般的に不足していることです。
答えられない質問が出て来ないかとヒヤヒヤしながら、研修を行っているというのが正直なところですね。
私の理想像はニュースなどの解説で有名な池上彰さんです。
わかりやすく伝えるという点を「強み」としているとは言え、彼や同じようなレベルで仕事をしている方の解説に比べるとわかりやすさのレベルに雲泥の差を感じます。
というわけで、「わかりやすく伝える」という一点に特化して考えても、まだまだ半人前なのですが・・。

さて・・・
「わかりやすさ」を私自身の「強み」にしたいと考えた原点は学校の授業にあります。
先生の言っていることがわからなくて全然つまらなかったんです。
授業がわからないのは、少なくとも私だけではなかったはずです。
特にひどいと感じたのは大学。
大学教授は研究者なので仕方がないのかもしれませんが、完全に学び手を無視した自分勝手な講義に呆れ果てました。
(もちろん、すべてがそうだと言うわけではありません)
コミュニケーションにおける主役は受け手です。
集団指導なので、全員のニーズに応えるのは難しいのはわかります。
それにしても、あまりにひどいのではないか?
そうした怒りにも似た気持ちが、私が講師という職業を志す理由となりました。
自分がした嫌な思いを他の人にはさせたくないという気持ちですね。
だから、私自身の「強み」は一貫して、「わかりやすく人に伝えることが出来る」でありたいし、そのスキルを磨くことを、自分自身の最優先課題と位置づけています。
前職では、講師の講師という存在であり、また人前でプレゼンテーションをする機会もなかったので、そうした能力を身につけるには不十分な環境でした。
とは言え、学校の教師になるのは私の最も望まないところ。
元来、怠け者の私では、外部の方の厳しい目がなければ成長しないと思ったからです。
ある程度生活の安定が保証された環境では自分自身に対して甘えが出ると考えました。
さらには、集団塾の講師になるという選択肢もありますが、子供ではなく、大人の厳しい目にさらされる方が良いと考えました。
そこで選んだのが、社会人向けの講師という今の職業です。
現在、セミナー・研修業界はいわばデフレ状態にあり、能力のない講師は生き残ることが出来ません。
厳しい環境だからこそ、そこで生き残っている人たちの能力は高いです。
いわゆるプロの研修講師やコンサルタント、セミナー講師と呼ばれる方に説明上手な方が多いのは、そういうところに理由があるのではないかと考えています。
私自身もそうなりたいと考え、関西からはるばる東京までやってきたというわけです。

転職を決意した後、このブログを書き始めたのには、理由があります。
私が過去10年間ほど子供の教育に携わってきた中で得た知識を体系的に整理し、文章化して残しておきたかったというのがその一つ。
塾で働いている頃には、それこそ毎日のように新しい気付きがありました。
教育に関連した本を読んだり、情報も仕入れるので知識もそれなりにありました。
それをこのようなかたちで小出しに提供させていただいてきたわけです。
書くことはそれこそ無限にあるように思っていました。
しかし、今あらためて感じるのは現場にいないことで、そうした知識が風化してきているということです。
正直、「勉強法」というテーマで書き続けることに限界を感じ始めました。
書くだけなら書けるんです。
ただ、「数多くの似たようなブログがある中で、他の方のブログにはないような情報提供が出来るのか?」ということに対して自信がなくなったのです。
ブログを続けるだけなら、どこかの教育系のブログに書いてあるような内容を改変して、それを公開するという方法だってありえるわけですからね。
でも、それなら、私がやる必要はありません。
ここでしか書けないことを書けないのなら、書く必要はない。
そう思うわけです。
では、私自身の存在意義って何だろう?
ブログの存在理由は何だろう?
・・・・
どんどん本質的なことを深く突き詰めていきました。
正直に言えば、その答えがはっきりしないので、昨年はブログの更新もあまり気乗りがしませんでした(単純にサボっていたという部分もありますが・・)。
ビジョン=目的がないとモチベーションが続かないというのは、私自身過去の記事で書いてきたとおりです。
気付く人は気付かれていたと思いますが、「教育法」という言葉もタイトルから削除しました。

ブログに関しては、そうした葛藤がありました。
教育に関しての価値ある情報提供を行いたいというのが本来の目的なので、(他の方のものと比べて)それを出来ないのなら、公開し続ける必要もないのではないかと思っていたわけです。
しかし、最近になってあることに気付きました。
それは、教育をテーマにしたブログを書く上での私自身の「強み」は、言うなれば大人の教育を仕事として行っていることにあるのでは?ということです。
日々の仕事のなかで、小中学校や高校、塾といった子供の教育現場で働く人とは違った「気付き」を得ることが出来るわけです。
つまり、違う視点から教育の問題を眺めることができるわけです。
例えば、
「社会人、職業人あるいはプロと呼ばれる人たちが、どういうことに悩んでいるのか?」
「どういうスキルを身につけたいと願っているのか?」
「そのために足りない能力は何なのか?」
「能力を向上させる上で障害となっている理由は何なのか?」
「基礎学力のどういった部分が実社会で役に立っているのか?」
「一般に仕事がデキル人とは、どういう能力が高いのか?」
「学生時代をどのように過ごした人が成功しているのか?苦労しているのか?」
こうした問いかけに対する答えを考えるのが私の仕事です。
こういうことは、塾や学校の先生にはわかりません。
もちろん、耳学問から答えを用意することは可能でしょう。
でも、実際にそういう人たちと触れ合って、課題と向き合っている人にしか、書けない内容もあると思います。
そうした部分を書いていこうと考えています。

・・・ということで、ブログのテーマは「教育法」からは卒業させていただきます。
すでにブログの内容は変容しつつありましたが、ここであらためて宣言させていただきました。
「教育リテラシー」とは私の造語です。
リテラシーとは、「読み書き能力。また、与えられた材料から必要な情報を引き出し、活用する能力。応用力。」という意味ですが、私は「教育スキル」のようなイメージで使用してきました。
今後は「教育法」に限定されない広い意味で解釈していただければ幸いです。
今後ともどうぞよろしくお願いします。

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