個人的なお話 [ブログタイトルの由来]


少し私自身のことについてお話させていただいた上で、お断り申し上げなければならないことがあります。
ブログのあり方についてです。
過去に書きましたが、私はこのブログを書き始めた頃に転職をしています。
慣れ親しんだ塾業界を離れ、今は子供の教育とは直接関わりのない仕事をしているのです。
企業研修の講師が主な仕事となるのですが、内容は「マーケティング」、「営業」、「コーチング」、「リーダーシップ」など多岐にわたります。
どの分野の専門でもない私が、このようなお仕事をさせていただけるのは、まさに「人に何かを伝える」という点での過去の経験が私の「強み」になっています。
子供にわかりやすく伝えることを仕事としていたので、大人にわかるように伝えることは、子供よりは易しいと感じています。
(評価は子供よりも格段に厳しいですが・・)
逆に「弱み」は、それぞれの分野での専門ではないので、知識が全般的に不足していることです。
答えられない質問が出て来ないかとヒヤヒヤしながら、研修を行っているというのが正直なところですね。
私の理想像はニュースなどの解説で有名な池上彰さんです。
わかりやすく伝えるという点を「強み」としているとは言え、彼や同じようなレベルで仕事をしている方の解説に比べるとわかりやすさのレベルに雲泥の差を感じます。
というわけで、「わかりやすく伝える」という一点に特化して考えても、まだまだ半人前なのですが・・。

さて・・・
「わかりやすさ」を私自身の「強み」にしたいと考えた原点は学校の授業にあります。
先生の言っていることがわからなくて全然つまらなかったんです。
授業がわからないのは、少なくとも私だけではなかったはずです。
特にひどいと感じたのは大学。
大学教授は研究者なので仕方がないのかもしれませんが、完全に学び手を無視した自分勝手な講義に呆れ果てました。
(もちろん、すべてがそうだと言うわけではありません)
コミュニケーションにおける主役は受け手です。
集団指導なので、全員のニーズに応えるのは難しいのはわかります。
それにしても、あまりにひどいのではないか?
そうした怒りにも似た気持ちが、私が講師という職業を志す理由となりました。
自分がした嫌な思いを他の人にはさせたくないという気持ちですね。
だから、私自身の「強み」は一貫して、「わかりやすく人に伝えることが出来る」でありたいし、そのスキルを磨くことを、自分自身の最優先課題と位置づけています。
前職では、講師の講師という存在であり、また人前でプレゼンテーションをする機会もなかったので、そうした能力を身につけるには不十分な環境でした。
とは言え、学校の教師になるのは私の最も望まないところ。
元来、怠け者の私では、外部の方の厳しい目がなければ成長しないと思ったからです。
ある程度生活の安定が保証された環境では自分自身に対して甘えが出ると考えました。
さらには、集団塾の講師になるという選択肢もありますが、子供ではなく、大人の厳しい目にさらされる方が良いと考えました。
そこで選んだのが、社会人向けの講師という今の職業です。
現在、セミナー・研修業界はいわばデフレ状態にあり、能力のない講師は生き残ることが出来ません。
厳しい環境だからこそ、そこで生き残っている人たちの能力は高いです。
いわゆるプロの研修講師やコンサルタント、セミナー講師と呼ばれる方に説明上手な方が多いのは、そういうところに理由があるのではないかと考えています。
私自身もそうなりたいと考え、関西からはるばる東京までやってきたというわけです。

転職を決意した後、このブログを書き始めたのには、理由があります。
私が過去10年間ほど子供の教育に携わってきた中で得た知識を体系的に整理し、文章化して残しておきたかったというのがその一つ。
塾で働いている頃には、それこそ毎日のように新しい気付きがありました。
教育に関連した本を読んだり、情報も仕入れるので知識もそれなりにありました。
それをこのようなかたちで小出しに提供させていただいてきたわけです。
書くことはそれこそ無限にあるように思っていました。
しかし、今あらためて感じるのは現場にいないことで、そうした知識が風化してきているということです。
正直、「勉強法」というテーマで書き続けることに限界を感じ始めました。
書くだけなら書けるんです。
ただ、「数多くの似たようなブログがある中で、他の方のブログにはないような情報提供が出来るのか?」ということに対して自信がなくなったのです。
ブログを続けるだけなら、どこかの教育系のブログに書いてあるような内容を改変して、それを公開するという方法だってありえるわけですからね。
でも、それなら、私がやる必要はありません。
ここでしか書けないことを書けないのなら、書く必要はない。
そう思うわけです。
では、私自身の存在意義って何だろう?
ブログの存在理由は何だろう?
・・・・
どんどん本質的なことを深く突き詰めていきました。
正直に言えば、その答えがはっきりしないので、昨年はブログの更新もあまり気乗りがしませんでした(単純にサボっていたという部分もありますが・・)。
ビジョン=目的がないとモチベーションが続かないというのは、私自身過去の記事で書いてきたとおりです。
気付く人は気付かれていたと思いますが、「教育法」という言葉もタイトルから削除しました。

ブログに関しては、そうした葛藤がありました。
教育に関しての価値ある情報提供を行いたいというのが本来の目的なので、(他の方のものと比べて)それを出来ないのなら、公開し続ける必要もないのではないかと思っていたわけです。
しかし、最近になってあることに気付きました。
それは、教育をテーマにしたブログを書く上での私自身の「強み」は、言うなれば大人の教育を仕事として行っていることにあるのでは?ということです。
日々の仕事のなかで、小中学校や高校、塾といった子供の教育現場で働く人とは違った「気付き」を得ることが出来るわけです。
つまり、違う視点から教育の問題を眺めることができるわけです。
例えば、
「社会人、職業人あるいはプロと呼ばれる人たちが、どういうことに悩んでいるのか?」
「どういうスキルを身につけたいと願っているのか?」
「そのために足りない能力は何なのか?」
「能力を向上させる上で障害となっている理由は何なのか?」
「基礎学力のどういった部分が実社会で役に立っているのか?」
「一般に仕事がデキル人とは、どういう能力が高いのか?」
「学生時代をどのように過ごした人が成功しているのか?苦労しているのか?」
こうした問いかけに対する答えを考えるのが私の仕事です。
こういうことは、塾や学校の先生にはわかりません。
もちろん、耳学問から答えを用意することは可能でしょう。
でも、実際にそういう人たちと触れ合って、課題と向き合っている人にしか、書けない内容もあると思います。
そうした部分を書いていこうと考えています。

・・・ということで、ブログのテーマは「教育法」からは卒業させていただきます。
すでにブログの内容は変容しつつありましたが、ここであらためて宣言させていただきました。
「教育リテラシー」とは私の造語です。
リテラシーとは、「読み書き能力。また、与えられた材料から必要な情報を引き出し、活用する能力。応用力。」という意味ですが、私は「教育スキル」のようなイメージで使用してきました。
今後は「教育法」に限定されない広い意味で解釈していただければ幸いです。
今後ともどうぞよろしくお願いします。

読み手と聞き手 [コミュニケーション]


前回の記事に個人的な話として書きましたが、どうも私の頭は理解力に欠けているようで、子供の頃から人の話を理解するのが苦手でした。
本は理解できるのですが、話を理解するのが苦手だったんです。
この点についてピーター・ドラッカー教授が面白い指摘をしています。
少し長くなりますが、彼の著作からそのまま引用させていただきます。

「読む人間と聞く人間」
仕事の仕方について初めに知っておくべきことが、自分は読む人間か、聞く人間かである。世の中には読み手と聞き手がいるということ、しかも、両方できる人はほとんどいないということを知らない人が多い。自分がそのいずれであるかを認識している人はさらに少ない。しかし、これを知らないことがいかに大きな害をもたらすかについては、いくつかの実例がある。
 第二次大戦中、ヨーロッパ連合軍最高司令官を務めていた頃のドワイト・アイゼンハワーは、記者会見の花形だった。……彼はあらゆる質問に答えられ…状況と戦術の説明は完璧、言葉づかいさえ洗練されていた。
 ところが、その後大統領になったアイゼンハワーは、10年前に敬意を払っていた同じ記者たちから馬鹿にされることになった。まるで道化のようだった。質問には答えられず、関係のないことを口にした。脈絡のないことを文法さえ間違えて話した。
 しかし彼の文章能力は、若い頃、要求水準の高いマッカーサー元帥のスピーチを書いて認められたほど高かった。
 アイゼンハワーは、自らが読んで理解する読み手であって、聞いて理解する聞き手ではないことを自覚していなかった。連合軍最高司令官だった頃は、会見の少なくとも30分前には、広報担当者が記者の質問を書いて渡していた。そのため質問のすべてを掌握していた。
 ところが大統領としての彼の前任者、フランクリン・ルーズベルトとハリー・トルーマンは、どちらも聞き手だった。二人はそのことを知っており、自由質問による会見を楽しんでいた。ルーズベルトにいたっては、二人の有能な閣僚、ジョージ・マーシャル将軍とディーン・アチソンに口頭による小1時間の解説を頼んでいた。もちろん二人への彼の質問も口頭だった。
 アイゼンハワーは、二人の前任者と同じかたちで会見をしなければならないと思い込んでいた。だが、耳では記者の質問が理解できなかった。聞き手でない者のなかには、アイゼンハワーと同じ経験をしている者が大勢いる。
 その数年後、今度はリンドン・ジョンソンが同じく大統領として、アイゼンハワーとは逆に、自らが聞き手であることを知らなかったために、評判を落とした。
 自らが読み手であることを知っていた彼の前任者ジョン・ケネディは、歴史家のアーサー・シュレジンガー、一流記者のビル・モイヤースなど、最高の書き手を集めた。彼は、問題の検討に入る前に、必ず書いたものを要求した。ジョンソンは、それらの書き手をそのまま引き継いだ。彼ら書き手は、次から次へと書面を提出した。しかし、ジョンソンがそれらのものを一度も理解しなかったことは明らかだった。彼は上院議員だった頃はきわめて有能だった。だいたいにおいて、議員というものは聞き手である。
 自分が右ききか左ききかを自覚するようになったのは、先進国においてさえ一世紀ほど前にすぎない。左ききは、まともに扱われなかった。しかも、右ききに転向できた者はほとんどいなかった。彼らの多くは、単に、無能とされ、ときにはその心理的な負担のために、どもるようにさえなった。
 左ききは、おそらく10人に1人にすぎない。これに対し、聞き手と読み手の割合は、ほとんど五分である。そして、左ききが右ききになることが難しいように、聞き手が読み手になることも難しい。同じことは、逆についてもいえる。
 したがって、読み手として行動する聞き手はジョンソンと同じ道をたどる。逆に聞き手として行動する読み手は、アイゼンハワーと同じ運命をたどる。何事も行なえず、何事も達成できない。
~ピーター・ドラッカー著 「明日を支配するもの」より抜粋~

この一文に出会えたことは、私にとってあまりに大きな衝撃でした。
これまでモヤモヤとしていたことを、実例をあげて完璧なまでに説明してくれたのです。
高校に入っても、予備校に行っても、大学に入っても、授業は全然理解できない・・。
しかし、読解力に関して言えば、私事で恐縮ですが、人並みよりもかなり高いレベルにありました。
現代文や国語の文章題に限れば、偏差値が70を下回ることはあまりありませんでした。
大学受験では、古文の勉強を一切しませんでしたが、それは、その部分の得点を現代文でカバーすることが出来たからに他なりません。
(今にして思えば、これは非効率な学習法です・・)
要するに、私は「読み手」だったのです。
「読み手」の人間に話して聞かせることは、右利きの人間に左手で作業させるようなものです。
ドラッカーの指摘通りならば、私が授業を理解できないのは当然の話でした。
さらに・・これは、私の仮説ですが、「ハーマンモデル」の考え方を応用すれば、この偏りにも程度があると私は考えています。
脳の容量を10と仮定すれば、その配分のバランスが人それぞれなんですね。
ある人は、
「読む4:聞く6」かもしれませんし、
ある人は、
「読む1:聞く9」かもしれません。
「利き脳」の概念を以前お話させていただきましたが、それに当てはめれば自分の得意な理解の仕方に偏ってしまっているのではないかと考えています。
つまり、私の場合は極端に読む方に能力が偏っていたんですね。
例えば、このように・・
「読むための能力9:聞くための能力1」
私が授業を理解することが出来なかったのは、こういう理由かとまさに目からウロコが落ちた思いでした。
こういう観点から、子供の教育について考えることは非常に有意義です。
例えば、典型的な「読む」タイプの子供を集団塾に入れることはあまり効果がありません。
なぜなら、授業が理解できないからです。
こういう子供には自主学習か家庭教師のような個人指導が向いているでしょう。
あるいは、典型的な「聞く」タイプの子供に独学を勧めてはいけません。
自分では理解できないので、やはり勉強が嫌になってしまうでしょう。
正直に言えば、私は大学卒業までの22年間、ほとんど授業を聞いていませんでした。
大学にいたっては、ほとんど欠席か講義は寝ていましたし、予備校は自習室に通っているだけの毎日でした。
中学や高校の授業はいつもノートに絵を書いていました。
早く終わらないかなと時計ばかりを見ていたのを今でも鮮明に覚えています。
開き直っていたわけではありません。
頑張ろうという気持ちがなかったわけでもありません。
いつも新学期が始まる度に、今年こそはと授業に臨んでいたのです。
でも、それが出来ない自分にいつも罪悪感を感じていました。
罪悪感はいつしか劣等感になり、こと学業面に関しては私の高校3年間は無に等しい時間となってしまいました。
浪人生活でいくらか取り返したものの、あの3年間は私にとってあまりに大きな損失でした。
ドラッカー教授の言葉は、そんな私を少しだけ認めてくれたような気がします。
自分の子供が「聞く人間」か「読む人間」か?
両方とも出来るに越したことはないのでしょうが、どうしても偏りは出てしまうようです。
それに合わせた指導をすることで、本人は救われるかもしれません。
私はドラッカーの言葉を中学生のときに知りたかったです。
大人の勉強法についてもちょっとだけ触れておきます。
当然のことながら、「読む」タイプは読書による情報収集が向いています。
「聞く」タイプは講義やセミナーによる情報収集が向いています。
「聞く」タイプの人はおそらく読書が苦手で、テレビとかの方が好きです。
「読む」タイプの人はおそらくテレビをあまり見ません。
最近になってようやくオーディオブックというものが一般化してきました。
アメリカなどでは非常に評価の高い学習法なので、私も過去に試してみたことがあるのですが、全く自分には合いませんでした。
なぜなら、私は「読む」タイプだからです。
でもきっと、「聞く」タイプの人が、本の内容を学習するツールとしては優れているのだと思います。
どうしても本が読めないという人は是非試してみてください。

最後に一つだけ。
そんな私でも理解できる素晴らしい授業を行う先生が全くいなかったわけではありません。
一例を挙げれば、河合塾で世界史の講義を担当する青木裕司先生。
この先生は私がそれまでの18年間の人生で初めて出会った「私にも理解できる」講義をしてくれる先生でした(彼の歴史観には共感出来ませんが・・)。
初めて授業を受けたときの感動は今でも忘れることが出来ません。
大学に合格してからも、わざわざお金を払って予備校の授業を受けに行ったほどです。
片手で数えるほどしか出会えていませんが、このように「読み手」に偏ったタイプの人間の心を動かすほどの授業が出来る先生は確実に存在するのです。
そして、その出会った先生達の全員が、講師としては一流と呼ばれる人ばかりでした。
やはり、そのレベルを目指さないのは、講師としての怠慢だと私は思うわけです。

「素直さ」は簡単には身につきません [教育全般]


社会的に成功するために「素直さ」は欠かせない要素です。
成長するために最も重要な資質と言っても過言ではありません。
ただ、この「素直さ」というのが、なかなか難しい。
本当の意味で「素直な人」には、あまりお目にかかることがありません。
(「従順」な人はたくさんいます)
今回、書くように「素直さ」というのは、簡単に身につく資質ではないからです。
自分自身、振り返ってみてもまだまだ出来てないです。
そして、これが肝心な点なのですが、
「素直さ」は後天的に努力して得られる資質であり、先天的な要素ではありません。
では、どのようにして得られる資質なのか?
それを確認していきたいと思います。

私が思う「素直さ」は、次の3つの要素によって成り立っています。

①自分自身を客観視できる
②異なる意見や考え方を受け入れられる勇気がある
③心の余裕がある

簡単な例え話から始めましょう。
付き合って3年目のカップルの会話です。

Aさん 「○○(彼氏の名前)、前から思っていたんだけど、その服変だよ。」
B君  「えぇ~そんな事ないよ。嵐の○○も似たようなの着てるじゃん。」
Aさん 「全然違うって!だいたい顔も違うんだから、一緒にしないで!」
B君  「・・・・もういいよ。お前と遊ぶ日は着てこないから。」

ずいぶんと厳しい彼女ですが、ここでは仮にAさんが絶対的に正しいと仮定します。
素直に彼女の意見を受け入れた方がお互いにメリットのある場面です。
ここで、B君が素直であるためには心の中の3つの関門を越えなければなりません。
まず、一つ目は①の自分自身を客観視できる視点。
素直であるために、最も重要な事です。
この会話の場合、自分自身の立ち位置を客観的な視点から眺める事が出来なければ、B君はAさんの言っていることの正しさを知ることすら出来ません。
人間の最たる思い込みは、「自分が正しい」です。
余程、気をつけなければ、この考えは留まることを知りません。
極端な例ですが、一説には殺人犯のほとんどは、殺人を犯した時点では自分が悪いとは思っていないそうです。
彼らいわく、
「自分と同じ境遇で育てば、誰でもそうなった」
「あいつは殺されて当然の人間だ」
「俺の気持ちは俺にしかわからない」
「殺さなければ、俺が殺されていた」
・・・・
つまり、行くところまでいけば、「自分が正しい」という思い込みは殺人という犯罪行為までも正当化する力があるのですね。
「自分が正しい」のかそうでないのか?
これは、客観的に自分自身を見ることの出来る人だけが判断できることです。
先の例で言えば、B君は自分のセンスの悪さを疑う正しい目を持っている必要があるわけです。
ところで、どうすれば「自分が正しい」という思い込みを捨てられるのでしょうか?
どのようにすれば、客観的に自分を見る目を養えるのでしょうか?
それが出来るための日常の3つの習慣を、セミナーなどで私は提案しています。
第一の習慣は、「人や環境のせいにしない」です。
人のせいにするという事は、自分は変わらないという宣言に等しいです。
「生まれ育った時代が悪い」
「商品が売れないのは、会社が悪い。」
「先生が何も言ってくれなかったから、願書の提出期限を過ぎてしまった」
こう考えた瞬間、思考停止してしまい、自分を疑う視点を失ってしまいます。
第二の習慣は、「そういう事もあるかな?と常に自分を疑う姿勢」です。
人からの提案を聞きにくいのは、誰でも一緒です。
聞きたくないがために、最初から意見を否定する習慣のある人も少なくありません。
こういう人にとって大切なのは、人から何か提案を受けたときに「そういう事もあるかな?」と一旦自分自身に問いかける習慣です。
聞き入れたくない意見を聞いたときに、自分の中でワンクッション入れてから返事をする習慣付けですね。
これだけで、主観ではなく、客観的な視野から物事を考えるようになります。
第三の習慣は、「ルールをきちんと守る」ことです。
窃盗や殺人など凶悪な犯罪に限りません。
法というのは、建前上、最大多数の合意によって成立する決まり事です。
どんなに理不尽なように見えても、そのように決まるまでには、それなりの合理的理由が存在します。
言うなれば、「こうあるべき」という模範を最も厳格なかたちで縛ったものが法律に他なりません。
もっとゆるい存在として、スポーツや地域社会、会社などの規則もあります。
とにかく、
こうしたルールを大なり小なり自分に都合の良いように解釈して、決まり事を守らない人がいます。
「ドイツの高速道路は何キロで走っても良い(だから今、130キロくらい出しても問題ない)」
「(コンビニにて)燃えるゴミのゴミ箱が溢れているから、ペットボトル用のゴミ箱に捨てておこう」
「一枚だけだから、会社のコピー機を私用に使おう」
恥ずかしながら、どれも自分自身の過去の体験です。
けれど、似たような事は誰にでもありませんか?
どれもこれも、勝手な解釈で自分自身を正当化しています。
ルールを守るということは、規範に自分自身を合わせていくこと。
つまり、自分自身の中に客観的な基準を設けるということなのです。

長くなったので、少し話をまとめましょう。
素直であるための3つのポイントが、
①自分自身を客観視できる
②異なる意見や考え方を受け入れられる勇気
③心の余裕がある
この3つです。
最も重要なのが、①自分自身を客観視できる ことで、
そうなるための日常の習慣が
・人や環境のせいにしないこと
・人からの提案があったときは「そういう事もあるかな?」といったん自分を疑うこと
・ルールや決まり事を守ること
となります。
素直であるための、残り二つの条件、
②異なる意見や考え方を受け入れられる勇気
③心の余裕がある
についてはこれから解説していきます。

自分を客観視することさえ出来れば、残り二つはそれほど難しくありません。
ここで再びAさんとB君の会話を見てみましょう。

Aさん 「○○(彼氏の名前)、前から思っていたんだけど、その服変だよ。」
B君  「えぇ~そんな事ないよ。嵐の○○も似たようなの着てるじゃん。」
Aさん 「全然違うって!だいたい顔も違うんだから、一緒にしないで!」
B君  「・・・・もういいよ。お前と遊ぶ日は着てこないから。」

B君は、自分を客観視することが出来ていないので、Aさんの意見を受け入れることは出来ませんでした。
しかし、上に書いてきたような思考習慣を取り入れたとしましょう。
このケースで必要なのは、いったん自分を疑ってみる姿勢です。

Aさん 「○○(彼氏の名前)、前から思っていたんだけど、その服変だよ。」
(えっ!? 俺の感覚が何かずれていたかな?)→そういうこともあるかな?とワンクッション
B君  「どういうところが変か教えて?」
Aさん 「何か上手く言えないけど、とにかく変。私の友達からの評判も悪いよ。」
B君  「・・・・・・・」

さて、ここでB君は何と答えるでしょうか?
B君が本当に自分を客観視できるなら、この時点で何か気付くかもしれません。
例えばこんな具合に・・
(友達の彼氏の服装について指摘するなんて余程ひどいと感じたんだろうな)
(たしかにこの服を着ていて誰かにほめられたことはない)
などなど
ここで、B君の反応が試されています。
②の異なる意見や考え方を受け入れられる勇気がなければ、B君の反応は以下のようになるでしょう。

B君  「うるさいな!ほうっておいてよ。」

自分の間違いに気付いたとしても、それを認めるためには勇気が要ります。
なぜ勇気が必要なのかと言えば、間違いを認めるということは、イコール自分が変わらなければならないことを意味するからです。
人は成長したいと願うと同時に、今のままの自分でありたいという気持ちを持っています。
この気持ちの強さには個人差がありますが、一般的に頑固と言われる人ほど強くそう思っています。
昨日と違う自分になるのは、怖いんです。
頑固な人は、精神的に怖がりな人と言えるでしょう。
それを無理やり他人に変えられることは多くの場合、本人にとって認められないことです。
だから、B君は怒るんです。
これは別に悪いことではなくて、人として普通の反応です。
しかし、この人として普通の反応が成長の阻害要因となっています。
なぜなら、成長とは変化することだからです。
「素直」になるためには、この怖さに打ち勝つ勇気が必要です。
自分自身を客観視することが出来て、間違いに気付けたのなら、次に必要なのは変わる勇気です。
それがあれば、B君は次のように返答することが出来るでしょう。

Aさん 「○○(彼氏の名前)、前から思っていたんだけど、その服変だよ。」
(えっ!? 俺の感覚が何かずれていたかな?)→そういうこともあるかな?とワンクッション
B君  「どういうところが変か教えて?」
Aさん 「何か上手く言えないけど、とにかく変。私の友達からの評判も悪いよ。」
B君  「じゃあさ。どういう服装なら似合うと思う?」

皮肉たっぷりの返答ではいけませんが、本気でこのようにたずねられたら、彼女もきちんと教えてくれることでしょう。
このようにして、意見を素直に聞ける人を、人は好意的に見るものですし、また何か教えてあげようという気持ちにもなります。
逆に人の意見を聞けない人に対して、何か言おうとは次第に思わなくなります。
誰だって衝突するのは面倒なのです。

それでは、この「勇気」はどのようにすれば身につくのでしょうか?
色々あるのでしょうが、ここでは簡単な習慣を一つご紹介させていただきます。
それは、
「これまでと違うことに毎日少しずつでもチャレンジしてみる」です。
例えば、
「昨日と違う道で仕事に行く」
「これまで行ったことのない場所に旅行に行ってみる」
「読んだことのないジャンルの小説を読んでみる」
「食べたことのないものを食べる」
などなど・・
何でも良いのです。
私の例でお話させていただくと、過去に車の名義変更を自分で行ったことがあります。
きちんと調べて手間を惜しまなければ誰でも出来る簡単な手続きです。
しかし、この簡単なことでも、チャレンジするのにはちょっとした勇気が必要でした。
「自分で出来るのかな?もし失敗してたらどうしよう?」という不安があるんですね。
でも、こうした不安を乗り越えてそれが自分の手で出来たときには何とも言えない達成感がありました。
ほんとちょっとしたことなんですけどね。
チャレンジとは何も人生の大決断のようなものだけを指すわけではありません。
ほとんどノーリスクで出来るそうしたちょっとしたものも充分チャレンジと言えるんです。
それを繰り返して、変化に対する耐性を身につけておくのが大切だと言う事です。

人の意見を聞けない人とは、これまでの内容をまとめるなら、
①自分自身を客観視出来なくて、
②変わる勇気を持てない(≒自分に自信がない)
人です。
自分に自信がある人ほど頑固なイメージですが、実は逆なんですね。
子供や老人は一般的に頑固ですが、これは肉体的・精神的な弱者だからこそ自分に自信を持てず、(自信がないから)変化することに対しての恐れが強いのだと私は考えています。

さて、このように人からの意見を素直に聞けるためには、自分を客観視出来て、異なる意見や考え方を受け入れられる勇気が必要なのですが、最後にもう一つ。
「心の余裕」
これがなければ、とても無理です。
つまり、素直な自分でいるためには精神的な余裕が必要だという事です。
普段は人の意見を聞ける人でも、時と場合によってはそれが出来なくなることもあるでしょう。
毎日の精神状態にも左右されるというのが、難しいところです。

今日の内容をまとめます。
「素直さ」というのは、3つの要素によって成り立っています。
一つ目が、自分自身を客観的に見ることの出来る視点です。
人間の思考は、常日頃からの心がけがなければ固定観念の塊のようになってしまいます。
(この「心がけ」については3つ紹介させていただきました)
思考をなるべく柔軟に保つように努力し、主観的かつ客観的に物事を見ることのできる視野を持たなければなりません。
二つ目が、異なる意見や考え方を受け入れる勇気を持つことです。
成長するとは変化すること。
昨日と違う自分になることを恐れない勇気がなければ、素直にはなれません。
三つ目が、心の余裕があることです。
こればかりは流動的な要素です。
日々精神的な安定が保たれていなければ、「素直」であり続けることは出来ません。
いつも「素直」な人は心の健康が維持されている人なのです。

ところで・・・
社会的に成功するために「素直さ」は絶対に必要なことですが、「素直さ」を「従順」と誤解している人がたくさんいます。
ここで述べた「素直さ」と「従順」とは全く違う意味です。
今回は少し長くなりましたので、それについてはまた次回書いていきます。


素直と従順 [教育全般]


素直と従順であることはよく混同されていますが、全く違います。
会社は、「素直な人材」は欲しいですが、ただ従順な人、すなわち「YESマン」はいりません。
いったい何が違うのか?
今日はそれについて考えてみたいと思います。

「素直になることが大事」という意見を素直に聞けない子供は、この意味を「YESマンになれ」という意味と勘違いしているのではないでしょうか?
YESマンとは、精神的な奴隷です。
誰も奴隷にはなりたくありません。
自ら決めて主体的に行動したいという意志は、大人も子供も持っているからです。
ただ、そういう意志はあるものの、主体性を失ってしまった大人というのはたくさん存在します。

(主体性の重要性については過去の記事をご参照ください)
http://kisekinokyoiku.blog.so-net.ne.jp/2009-11-20

思春期に子供が反抗しはじめるのは、まさにこの「主体性」の目覚めに他なりません。
自分自身の行動を自分自身で決めるという、人として当然の欲求の自覚、そしてその権利を主張し始めるわけです。
幼少期は感情を爆発させることでしか表現出来なかった苦悩を、(まだ未熟ながらも)論理という道具を使って表現するようになります。
だから、幼少時のようには泣きません。
感情は論理という新しいはけ口を手に入れるのです。
「素直になりなさい」という言葉は、子供にとっては(ようやく自覚し始めた)自由を手に入れる権利を制限するものに聞こえてしまいます。
極端に言えば、ここで二つのタイプの子供が誕生します。
一人目は、親のいう事に何でも従う子供。
二人目は、親のいう事に反抗する子供です。
人として、正しく成長しているのは間違いなく後者です。
では、なぜ一人目は親のいう事に何でも従うのでしょう?
「親が怖い」、「親に嫌われるのが怖い」などなど、色々な事情があると思います。
塾で働いていると、こうした子供にはよく出会いますが、とにかく共通して言えるのは、親が正しい方向を向いていないということです。
正しい方向を向いていないとはどういう事かと言えば、世間体とか子供の進路とか、仕事上のトラブルとか、目の前の子供ではなく、別の方向に関心があるということです。
こうした場合、子供とは本当にかわいいもので、必死に親の目を自分に向けようとします。
そのために自分自身の「主体性」を殺すのです。
親の愛情が欲しいがために・・。
だから、私は異常に素直な子供には不安を覚えます。
中学生くらいの年齢は、親のいう事を聞けなくて当たり前なのですから。
そうして「主体性」を失ったまま大人になったのが、「YESマン」だと私は理解しています。
「YESマン」には主体的意志がありませんので、色々と弊害があります。
与えられた仕事しか出来ない、自分で何も決められない・・
こうしたことはもちろんですが、最も厄介なのは、不満を内に溜め込んでいるので精神的に弱いということです。
最近、うつ病になる人が増えていますが、その理由として・・
「学歴神話」→「偏った価値観による親の教育」→「子供のYESマン化」
という流れがあるのではないかと私は考えています。
つまり、人の言う事にただ従うだけの人間が、ここで言う従順ということです。
反抗期、つまり人格形成の時期をどう過ごしたかというのが、YESマン化してしまう最大の要因だと考えてはいますが、大人になってから「主体性」を失ってしまう人も多くいるようです。
これには職場の風土などが大きく影響しているのでしょう。
とにかく、こうしたYESマンタイプを仮にX型人間と呼ぶことにします。
逆に、きちんと反抗期を迎える子供はどうでしょう?
反抗期を迎えた子供には、幼少期のような「素直さ」がありません。
とりあえず親のいう事には反抗し、場合によっては悪い事をしたりします。
このままの状態では、いけません。
いけませんが、このままの状態で大人になってしまう人がたくさんいます。
会社では、自分の成績が悪いのを会社のせいにし、上司の言う事にはもっともらしい理屈をつけて反抗し、独自の解釈で自分を正当化し私用コピーなど犯罪とは呼べないまでも決して望ましいとは言えないような小悪を働く人です。
この精神的に未成熟なまま大人になってしまった人をY型人間と呼ぶことにします。
X型もY型も、社会人としては不適当です。
会社としては採用したくないタイプですね。
ところが、このY型人間。
自己主張や言い訳は上手なので、結構上手く立ち回っている人が数多く存在します。
皆さんの職場の上司や部下にもいるかもしれませんね。
生産的な人間ではないので、職場には不要なのですが、頻繁にみかけます。
いえ、それどころかX型とY型を合わせれば7割くらいになるかもしれません。
共通しているのは、仕事が楽しくなさそうだということです。
精神的に参っているか、愚痴ばっかり言っているかの違いはありますが・・。
もちろん、本人は幸せではありません。
さて・・・、X型でもなく、Y型でもない、前回お話したような「素直さ」を身につけた人間をここでは仮にZ型人間と呼ぶことにしましょう。
Z型人間がいいのは間違いないのですが、Z型人間になってもらうためには、子育て期、とりわけ反抗期の子供との接し方が重要になります。
どのように接すればいいのか?は残念ながら一言で表現することは出来ません。
出来ないから、このような小中学生の教育をテーマにしたブログを書いているわけです。
過去の記事の中からヒントを見つけていただきたいと思います。
ただ、最も重要な点をあえて一言で表現するなら、「人や環境のせいにしない」ようにさせることだと思います。
そのためには現実と向き合う勇気と強さが必要になります。
成年を迎えるまでは、肉体的にも精神的にもまだまだ弱い時期です。
そのための環境面、精神的な面でのフォローを惜しまないことが、親にとってはまず大切なことでしょう。

Z型人間とは、自らを取り巻く環境を客観的に見つめることが出来て、自らの意志によって正しい決断を下すことが出来る人間です。
環境に流されるままのX型人間とは決定的に異なります。
自らを客観視出来ず、あるべき方向に自分を方向付けできないY型人間とも異なります。
「素直さ」を持った人というのは、上のような意味で従順な人とも、ただ反抗的な人とも決定的に異なります。
従順ではなく、素直な人に。
自分自身についてもそうあり続けたいものです。



勉強しなさいと言ってはいけない理由 [モチベーション]


過去にモチベーションについて書いたことがあります。
その際、「外発的動機付け」について説明させていただきました。
その説明が難しかったように思いましたので、例え話を使って再度説明させていただきます。

あるところに、あまり強いとは言えないボクシング選手がいました。
試合の勝率はこれまでのところ、6割といったところです。
ある日、怪しげな風貌の男が彼の前に現れました。
そして、不思議な薬を手渡してこう言います。
「これを飲めば、不思議なパワーが沸いてくるんだ。次のボクシングの試合で使ってみるといい。」
さらに男は続けます。
「ただし、一回一錠だ。期間は必ず空ける事。何日も連続して飲まないようにな。」
彼は半信半疑ながらも、男の言う事を信用し、試合直前にその薬を飲みました。
すると、どうでしょう。
自らの身体の奥底から何とも言えないモチベーションが沸いてきます。
はっきり言って試合で負ける気などしません。
観客の予想を裏切り、たった1RでKO勝ちを収めることが出来ました。
彼は狂喜し、その薬に感謝をします。
そして、次の試合の日。
やはり同じように薬を飲みました。
モチベーションが身体にみなぎります。
前回の相手と同じくらいの強さの相手ですが、今回も負ける気はしません。
試合の結果は3RでKO勝ち。
圧倒的勝利とはいかないまでも、問題のない勝ち方です。
そして、次の試合・・。
同様に、薬を飲んでのぞみましたが、今回は辛くも判定勝ちでした。
彼は何かがおかしいと気付きます。
その薬を飲んでも、初回の試合のようなモチベーションが沸いてこないのです。
飲まなければ、もっと悪い結果になったのはわかるのですが、初めて飲んだときの身体の底から沸き起こるようなモチベーションを今では感じることがありません。
次は大事な試合があるのに・・。
そう思った彼は、男の忠告を無視して、試合前に薬を2錠飲みました。
「!!!!!!!」
過去に感じたことのないような強烈なモチベーションが彼を包みます。
試合は圧倒的な勝利に終わりました。
「なんだ、驚かせやがって・・・。一度に何錠飲んだって問題ないじゃないか。」
そう思った彼は、次の試合、そのまた次の試合も・・・と薬の使用量を増やしていきました。
試合は勝ち続けましたが、1年後、とうとうその薬がなくなってしまいました。
彼は薬を持ってきた男を必死になって捜しますが、どこにも見当たりません。
「仕方がない・・薬なしで戦うか。」
そう観念した彼はあることに気付きます。
1年前、自分自身に確実に存在していたはずのモチベーションがどこからも沸いてこないのです。
・・・・

何が言いたいかわかりますか?
この薬の正体が、「外発的動機付け」です。
「外発的動機付け」とは、外から与えることの出来る動機付けのことを指します。
こう言うと、餌で釣るようなやり方ばかりをイメージする方がいるのですが、「外発的動機付け」とはそのようなやり方に限りません。
※餌で釣るようなやり方とは、例えば、成績UPしたらお小遣いUPのようなものです
「外発的動機付け」の最たるものは、親の「勉強しなさい」という言葉です。
このブログを書き始めた頃から、それはいけませんと申し上げてきましたが、「勉強しなさい」という言葉はいわば劇薬なのです。
最初は効果的かもしれませんが、次第に慣れてきて、最終的には親が発狂せんばかりに叱り付けても子供は全く動じないという結果を招きます。
こうした子供は「外発的動機付け」が習慣化されていますので、報酬を与えても反応がいまひとつですし、とにかく勉強に対するモチベーションが希薄です。
自発的に勉強をするようにさせるためには「内発的動機」、すなわち外からの刺激をきっかけとせず勉強できるように育てていくことが大切なのですが、それが出来ずに「外発的動機付け」という劇薬を親が多用してしまい、先のボクサーのようになってしまった子供がたくさんいます。

では、「内発的な動機」にはどのようなものがあるのでしょう?
「内発的な動機」を知るためには、人間としての根源的な欲求から考えます。
ここでは、心理学者のアルダファーという人が提唱したERG理論というものを当てはめて考えてみることにしましょう。
マズローの五段階欲求説を使わなかったのは、3つで覚えやすいからです。
(※マズロー氏の理論を発展・進化させたのがERG理論です)
アルダファー氏は人間の根源的な欲求を、
① EXISTENSE(存在)
② RELATEDNESS(関係性)
③ GROUTH(成長)
以上の3つの観点から説明しました。
奥の深い理論なのですが、ここではその詳細を省き、「勉強」面だけにアレンジして説明させていただきます。
①の「存在」とは、あらゆるタイプの物質的・生理的な欲求です。
食欲、物欲、金銭欲、性欲などあらゆるタイプの原始的な欲求を指します。
②の「関係性」とは、良好な人間関係に対する欲求です。
マズローの五段階欲求説で言うところの「承認欲求」、つまり「人から認められたい」という欲求もここに含まれます。
勉強面においては、表彰される、いい学校に入る、ほめられる等を指します。
③の「成長」は文字通り、自己の成長に対する欲求です。
自らの能力アップや成績の向上、成功体験などはここに含まれます。
これらの欲求を源泉として、人間は内発的に動機付けされるんですね。

さて、ここで「ちょっと待って!」という反論が聞こえてきそうです。
物欲や金銭欲に働きかけるのは、「外発的な動機付け」に当たるのではないかと・・・。
これは非常によくある勘違いなので、ここで触れておきます。
勘違いというか、これは次元の違う話なのです。
物欲や金銭欲に働きかける行為は「外発的な動機付け」に当たります。
それは、その通りです。
そればかりか「すごい、すごい」とおだてながら相手に何かをやらせるような行為も、「外発的な動機付け」に含まれます。
「外発的な動機付け」とは欲求の内容ではなく、相手に対して働きかける行為を指します。
人間の根源的な欲求そのものは、上の3つで説明が可能であり、自ら動機付けられれば、「内発的」、外から動機付けされればそれは「外発的」となるのです。
こういう風に考えるとわかりやすいのではないでしょうか?
結果を出すために使われるのが、「外発的な動機付け」。
結果を出した後に得られるのが、「内発的な動機づけ」。
①の存在の欲求に関して言えば、
結果を出すために使われるのが、「勉強しなさい」
結果を出した後に得られるのが、「存在への安心感」
②の関係性の欲求に関して言えば、
結果を出すために使われるのが、「お世辞」
結果を出した後に得られるのが、「褒め言葉」といったところでしょうか?
「心の底から相手をほめる事」は内発的な動機に働きかけていますので、先の劇薬のように耐性が出来てしまうことはないのです。
ましてや、③「成長」という内発的な動機には限界がありません。
子供には成功体験を与えることが重要だと、過去何回も書いていますが、成功体験は人間の最も高次の欲求(③「成長」)を源泉とする強烈な「内発的な動機付け」なのです。
自らの努力の結果、上のような欲求が充足されると、人は内発的に動機付けされます。
つまり、「モチベーションが高いから何事かを成し遂げられる」のではなく、
「何事かを成し遂げられたからモチベーションが高くなる」のです。

最後に、もう一度言いましょう。
子供に「勉強しなさい」と言ってはいけないのです。

勉強しなさいと言わずに勉強させるために出来ること [モチベーション]


前回の記事で、「勉強しなさい」と言ってはいけないと書きました。
じゃあ、一体どうやって勉強させればいいんですか?
「内発的な動機」とか、そういうのじゃなくて、もっと具体的で即効性のあるやり方を教えてください。という声が聞こえてきそうなので、今日はそれについて書きます。

私が「勉強しなさい」と言ってはいけないとする理由の一つが、それが「外発的動機付け」にあたり、長期的には意味をなさなくなる手段だからというもので、前回の記事に書いたとおりです。
ただし、「外発的動機付け」は絶対に使ってはダメというわけではありません。
ここ一番という場面では成果を出すために使います。
「勉強しなさい」と言ってはいけないもう一つの理由。
それは、子供は親の言う事をきかないという事を知っているからです。
(※言う事を何でも素直に聞くとすれば、それはそれで問題です)
ここで「じゃんけんの法則」というものをご紹介させていただきます。
じゃんけんの必勝法ではなくて、私のオリジナル理論です。
難しい話ではありません。
当たり前ですが、グーはチョキに勝ちますが、パーには負けます。
それぞれを塾長(別に近所のおじさんでも良いです)、子供、母親に置きかえてみましょう。
この3者の関係は、じゃんけんに似ていませんか?
すなわち、
塾長は子供には勝てますが、母親には勝てません。
子供は母親には勝てますが、塾長には勝てません。
母親は塾長には勝てますが、子供には勝てません。
こうした関係を「三竦み」と言いますね。
母親が子供に勝てないという表現には、語弊があるかもしれませんが、要するに「母親の意見は素直に聞きにくい」という事です。
ちなみに、こうした関係は社会のあらゆる場面にあります。
グーはパーには勝てませんので、無理だと思ったら、チョキを使うのが賢いやり方です。
無理矢理やろうと思っても決して上手くいきません。
お互いに疲労するだけです。
つまり、塾の存在意義はこういうところにもあるわけです。
決して勉強を教えるためだけに存在しているわけではありません。
この場合の母親にとって大切なことは、子供が意見を聞きやすい第三者は誰か考えることです。
人間の特性として、身近にいる人の意見は最も聞きにくいものです。
お父さんが仕事に行って、お母さんが家事をするという典型的な家庭なのであれば、私がお勧めしたいのは、お父さんにその役割を任せるように仕向けることです。
子供の前で父親の悪口を言う母親がいますが、自分で自分の首を絞めているということがなぜわからないかな?と歯痒く感じることがよくありました。
お父さんは家庭の中で権威ある存在として位置づけておいた方が母親はラクなのに・・。
母親は子供が甘えられる存在、父親は子供に気付きを与える存在。
ただ、それだけでは母親に精神的なストレスが集中しますので、そのサポートを父親が行う。
母親>父親、父親>子供、子供>母親
中学受験で成功する家庭などは、こういう役割分担になっていることが多いです。
三竦みの関係が成立しているわけですね。
ただ、この関係にも色々問題があって、父親に子供に「気付き」を与えられるだけの「教育リテラシー」があることが前提となります。
父親が教育に関しての勉強を怠っていれば、それは不可能なわけです。
では、どうすればその「教育リテラシー」が身につくのかと言えば、「学習の基本的なやり方」と「正しい信念」を学んでおくことです。
それを学んでいただくための機会の一つがこのブログになります。

大切なことはそれだけではありません。
親に出来ることは、子供に環境を与えてあげることだと私は考えています。
直接的な役割を果たすのではなく、間接的な役割を果たすべきだということです。
そろばん塾に行かせてみる、家族で演劇鑑賞に行く、スイミングを習わせる・・
こうした事は子供に対して愛情のある親であれば、だいたい行っておられます。
しかし、環境を与える上でもっと重要なことがあります。
それは、熱の高い環境を準備してあげるということです。
熱意は伝染します。
もっともわかりやすいのは、受験期で、頑張る子供達は頑張る子供達と一緒に行動します。
その逆もまた然りです。
子供が学習を続けていく上で重要なのがモチベーションですが、モチベーションには波があり、常に一定ではありません。
やる気の高い集団というのは確実に存在します。
その集団の教師的な役割の人に熱意があるのか、リーダーに熱意があるのか、たまたま熱意のある人が集まったのかはわかりませんが、グループによってその熱さは全く異なります。
皆さんには、中学2年生のあのときのクラスは最高だったというようなご経験はありませんか?
その理由は、先生が良かったか、クラスにリーダー的人材がいたか、たまたまいい人ばかりが集まったか、どれかに必ず絞られるはずです。
モチベーションはつまるところ、「熱」なんですね。
「熱」である以上、冷めた環境に入れれば冷めてしまいます。
子供がどういう友達と付き合っていて、どうなりつつあるのか?
それを注視していくのはとても大切なことです。
「あの友達と付き合うのはやめなさい!」なんて言っても子供が聞くはずはないでしょう。
そういうことを一切言わなくても、勝手に子供がいい友達を選んでくるようになるのがベストです。
それには折に触れて、友達を見る目を養うことにつながる教育をしていくことが大切です。
では、友達選びの目はどのように養われるのかについて、次回は書いてみたいと思います。



子供の友人 [友達の選び方]


こんにちは。
前回は子供が勉強を一生懸命するようになるためには環境が大切だと書きました。
環境で最も重要なのは、周りの人間です。
やる気の高い集団の中に入れば、自分自身のやる気も高くなる。
その逆もまたしかりです。
とは言っても、親の目から見て望ましくないような友人を子供が連れてくることも多いでしょう。
勉強のやる気があって、お互いに切磋琢磨できるような友人を連れてきてくれれば最高です。
では、どのようにしてそのような「人を見る目」を養わせれば良いのでしょうか?
そのためのポイントは、私は以下の3つだと考えています。
①正しい価値観を持たせる
②環境を準備する
③連れてきた友達を否定しない

まずは①。
大人でも一緒ですが、人はどういう人と行動を共にするがしんどいかと言えば決まっています。
それは、価値観の異なった人と一緒にいるときです。
価値観とは生き方における優先順位のようなもので、この部分の差異だけは正解がないだけに意見が衝突した場合、それを埋めるのは容易ではありません。
例えば、交通事故で家族が危篤状態に陥ったとします。
しかし、本人は会社の経営者で当日は会社の存続を左右するほどの重要な仕事が入っていたとしましょう。
家族のもとに駆けつけるべきか?
会社の仕事を優先するべきか?
多くの場合、こうした問題には正解はありません。
その人自身の価値観の問題に帰結するからです。
そうした正解のない意見の食い違いを埋めるのは容易ではありません。
会社やグループ活動においては、異なった価値観の人が存在することは大切なことです。
異なる価値観の人同士が結びついた集団の方が強いからです。

ちょっと余談になりますが、印象的なエピソードをご紹介しましょう。
皆さんは世界最古の木造建築物をご存知ですか?
奈良の法隆寺ですね。
法隆寺の宮大工だった故西岡常一さんが、昔日経ビジネスに面白い記事を書いておられました。
おおむね、以下のような内容です。
「五重塔の柱に同じ太さのものは1本もない。・・・1本1本の木のくせを生かして使っている。せせこましい人為を越えていたから1300年の歴史にたえられた。節のない木目の揃った木だけを使って建てた室町時代の建物(法隆寺内にあったそうです)は600年しかもたなかった・・」
私はこの話は組織における強さを説明する象徴的なエピソードだと考えています。
1本1本の木の太さが違うというのは、言わば価値観の異なる人同士の集団です。
価値観の異質な集団をまとめあげるためには、リーダーに並々ならぬ信念や技量が求められます。
木目の揃った木を準備することが出来なかった当時の職人のように・・。
しかし、そのような異質なものの結合だからこそ、1300年もの間の風雪に耐え、世界最古の木造建築と呼ばれる強さがあったのだと思います。
価値観の同じものしか集めない同質の集団は弱いのです。
ですから、組織としては、様々な価値観を持った人の集まった環境が理想的だと考えています。
(※それがある程度のまとまりを持って機能していることが前提ですが・・)
ここ最近の日本の企業の弱さはこうした点もあるのかもしれません。
・・・ここまでは余談です。

組織としてみた場合には、異なる価値観のもの同士が存在することは大切かもしれません。
ところが友人関係となると、なかなかそのようにはいかないはずです。
やはり最も親しい友人というのは、最も価値観の近い友人ということになっていくことでしょう。
すなわち、子供達は価値観の似通ったグループが繋がりあうと言えるのです。
自分の子供が正しい価値観さえ持っていれば、そこには自然と正しい価値観を持った友人が集まると考えてよいでしょう。
人間に良いも悪いもありませんが、価値観に良し悪しはあると私は考えています。
価値観は当人と最も深く結びついていますので、いい人と悪い人がいるように見えるわけです。
正しい価値観を持った友人と付き合うのがとても大切なことだというわけですね。
ちなみにこの価値観、家庭環境によって形づくられることが多いようです。
その論理からすれば、育ちの良い子供は育ちの良い子供達と友達になると言えるのですが、子供達を観察していると、必ずしもそうとも言えない場面が目につくことがあります。
反抗期にきちんとした家庭で育った子供と、荒れ果てた家庭で育った子供が仲良くしているようなケースはそれに当たりますね。
この場合、家庭環境がお世辞にも良くないと言える子供が、親を反面教師として正しい価値観を身につけている場合がまず一つ。
これはとても良い関係と言えるでしょう。
上のようなケースなら全く問題はないのですが、問題は逆のパターンです。
すなわち、きちんとした家庭で育った子供が悪い価値観を持った集団に染められていくケース。
こうした場合、親が持っている何らかの歪んだ価値観が子供に投射されてしまっているのではないかと私は考えています。
歪んだ価値観の最たるものが、過度の危機感と劣等感ですね。
他人の子供と自分の子供を比較してしまう神経質な親を持った子供によく見られます。
親の期待や危機感が強すぎるために、子供が「自分は出来ない」という自己嫌悪に陥ってしまい、そのコンプレックスが同じように勉強面で恵まれない子供達と共振している。
私はこの現象をこのように理解しています。
つまり、価値観というのは「育ち」のみならず、親が子供をどのように扱うかによってもかなりの部分が決定されていくということです。

次に②。
環境を準備するについて説明します。
実は、これについては前回の記事に書いた内容と重なります。
ですので、それを参照していただきたいのですが、子供が正しい価値観を持っていたとしても、同じ価値観を持った子供がどこにもいなければ、そういう子供と友人関係の築きようもありません。
大人は自分の属する環境を主体的意志によって選ぶことが出来ますが、子供には不可能です。
舞台の中でどのように演技するかは子供に任せるべきですが、舞台を用意してあげるのは親の役割と言えるでしょう。
その大枠の部分は間違えないように導いていくことが大切です。

そして、最後の③。
連れてきた友達を否定しないことがなぜ大切なのか?
いったん子供がその相手を友達と認めた以上、その友人関係は最大限尊重してあげなければなりません。
これは私自身の実体験からお話させていただきましょう。
私が高校時代に付き合っていた友人の一部はお世辞にもあまり良い価値観を持った友人とは言えませんでした。
何人もの友人が私の家に泊まりに来て、翌日そのまま学校に行かずにパチンコに行く毎日です。
これは高校二年生時の話ですが、私自身もっともどうしようもなかった時期です。
お金はどうしていたのかと言えば、友達とグルになって両親の財布から抜いていました。
はっきり言って最悪です。
私事で恐縮ですが、私の母が偉かったなと思うのは、そんな友人達を否定しなかったことです。
今思えば、望ましくないという想いは常に頭の中にあったはずですが、友達が来たら必ず人数分の夕食を準備して迎え入れてくれました。
いつも笑顔で歓迎してくれたんです。
結論から言えば、そうした友人との関係は私の大学受験を機に一切なくなりました。

なぜ、友人を否定しないことが大切なのかは二つの理由によって説明できます。
まず一つ目は心理学的な見地。
「認知的不協和理論」というものがあります。
簡単に説明するなら、その友人を否定されれば否定されるほど、自分の脳はその相手と一緒にいる自分を正当化しようとする、つまりその友人に対して固執するようになるという理論です。
悪い男に魅かれ続ける女性と同じ心理です。
だから、親はあまり余計な事は言わない方が良い。
その友人と付き合う自分を正当化しようとして長所を必死で見つけようとしますから、逆効果です。
もう一つの理由。
これは価値観の押し付けになるので、人によっては関係のない話かもしれません。
誰でもそうかと思いますが、私は自分自身に対して行うべきことをやれない自分、能力の低い自分に苛立つ日がたくさんあります。
ただ、そんな私でも自分の中で唯一、自分自身を誇りに思っている部分があります。
それが「友人を大切にする」自分であり、結果として友人関係にとても恵まれていることです。
そういう友人の存在は、自分自身を見失いそうになるときの心の拠り所になってくれます。
家族と同様、私にとっては人生の宝物なんですね。
ただ、こうした価値観がどのようにして養われたのか、最近になるまであまり深く考えたことはなかったんです。
でも、今思えば、それは親から受け継いだ価値観だったんですね。
どんな友人でも大切にすることを姿勢で示してくれた両親のおかげだったわけです。
価値観を強要するつもりはありません。
「友人を大切にする」ことが、それほど重要だと考えない方もいるでしょう。
そうした人は別に構わないのかもしれませんが、私自身のお話で言えば、親からそういう事を学んだことにとても感謝しています。
だから、子供の連れてきた友人を否定しないことは大切だと私は考えています。

まとめます。
子供がいい友人と付き合うようになるために果たす親の重要な役割は、
①正しい価値観を持たせる
②環境を準備する
③連れてきた友達を否定しない
以上の3つです。
特に重要なのは、①ですね。
悪い価値観を持った子供と一緒にいることをしんどく感じるような価値観を子供に育てていくことが家庭における最も重要な役割だということです。
「嘘をつかない」、「約束を守る」、「借りたものはきっちり返す」、「時間を守る」・・・
こうした事をきっちり行う子供がそうでない子供と付き合うのはやはりしんどい。
大切なのは、やはり普段からのしつけだというわけです。


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