コミュニケーション能力は学校のテストで測れるか? [コミュニケーション]


こんにちは。
10月になって急に息を吹き返したかのように、ブログを頻繁に更新しています。

社会人と学生の「頭の良さ」の違いについて、検証してきました。
その認識のギャップが起きる一点目の要因として、ロジカルシンキングと数学との関係について書いたのが昨日の内容です。
今日は、「コミュニケーション能力」におけるギャップについて考えたいと思います。
※「コミュニケーション能力」には語学力も含んでいますが、それは今日のお話からは除外して考えていきます。

コミュニケーションとは、他者と「何らかの接触を通じて」感情や意志や情報の伝達を行うことです。
最も一般的な手段が「言語」です。
話し言葉や文章などを通じて、私たちは自分の考えや思いを他者に伝えています。
あるいは他者から受け取っています。
しかし、コミュニケーション手段は「言語」に限りません。
むしろ「言語」以外の要素に負う部分が大きいと言えるでしょう。
怪しげなセミナーに行くと、よく「メラビアンの法則」というものが出てきます。
セミナー講師がそこで口にするのが、「コミュニケーションにおける影響の程度は、言語情報が7%、口調や話の早さなどの聴覚情報が38%、見た目などの視覚情報が55%の割合を占めています」というお話なのですが、そんな馬鹿なお話はありません。
メラビアンがどんな実験をして、この数字を出したのかを調べれば、この説明は明らかに実験内容の拡大解釈であり、理論的な正確性を欠いたものだということがわかります。
(話の本題とそれるのでここでは触れませんが・・・)
しかし、この「(日本版)メラビアンの法則」はインチキだとしても、コミュニケーションを構成する要素が「言語」に限らないというのは本当です。

「怒ってるやろ?」
「怒ってないって!!!!!!(明らかに怒ってる)」

こんな会話は日常的にありえますからね。
20世紀最大の経営学者と言われるピータードラッカーさんはこうおっしゃっています。
「本当のコミュニケーションとは、情報の交換ではなく、知覚(感情)の共有だ」
またこうもおっしゃっておられます。
「コミュニケーションの向上は送り手ではなく、受け手によってもたらされる」
さらに、さらに・・こんなこともおっしゃっておられます。
「コミュニケーションで一番大切なことは、相手が口にしていない言葉を聞き分ける能力である」

・・・・・もう一度まとめて繰り返します。

「本当のコミュニケーションとは、情報の交換ではなく、知覚(感情)の共有だ」
「コミュニケーションの向上は送り手ではなく、受け手によってもたらされる」
「コミュニケーションで一番大切なことは、相手が口にしていない言葉を聞き分ける能力である」

さすが、ドラッカーさんです。
僕が書きたいことをたった3つの言葉に集約してくれました。
これが、コミュニケーションの本質です。
これらを前提とした上で、言葉や文章、あるいは身振り手振り、その他あらゆる手段を通じて、お互いの共通認識を作り出すことの出来る人間をコミュニケーション能力が高いと言うのですね。
上の言葉に、もう少しだけ説明を補足しておきましょう。

第一に、「情報の交換ではなく、知覚の共有」とはどういうことでしょう?
これは相手と感情レベルで理解し合えということです。
「嬉しい」、「怒り」、「哀しい」、「楽しい」・・
こうした感情を相手と共有できることが大切です。
コミュニケーション能力が低い人間というのは空気が読めません。
空気というのは、場の中にいる人間が作り出す知覚レベルの共通認識のことです。
それを正しく感じ取って共有することが出来る人間であることが大切です。
例えば、誰かのお子様が交通事故で急に亡くなったとしましょう。
そのお葬式で出されたお弁当をむしゃむしゃと全部食べる人。
こういう人は空気が読めない人です。
遺族の気持ちを汲み取って、その感情を共有出来る人ならこういうことはしないです。
例え、自分がその子供に会った事がなくても、悲しくならなくてはなりません。
そのためには、突然子供を亡くしてしまうという悲しみがどれほどのものか、想像できるだけの想像力が必要になります。
はい。ここで大切な事を書きました。
「想像力」というのはコミュニケーションにおける重要なキーワードになります。
あと30秒、覚えておいてください。

第二に、「送り手ではなく、受け手」とはどういうことでしょう?
これは比較的簡単に説明することが出来ます。
例えば、「日本経済の展望」というテーマについて講演会を頼まれたとします。
どこに行っても同じようにしか話が出来ない人はコミュニケーション能力の低い人です。
なぜなら、対象とする相手によって、使うべき言葉、たとえ話、話すスピード、声量・・すべて変化するはずだからです。
どんなに素晴らしい話でも相手が理解していなければ、何の役にも立ちません。
コミュニケーションの成否は送り手ではなく、受け手が決めるのです。
そうした意味で、本当に上手な伝え手というのは、極めて稀です。
相手に応じて変幻自在な伝え手こそ、コミュニケーション上手な人間であると言えるでしょう。

第三に、「相手が口にしていない言葉」についてです。
ここで先に述べた「想像力」が必要になります。
「想像力」がなければ、相手の言葉の背景を知ることが出来ません。
「怒ってないって!!!!!」
という言葉の裏側はこちらが想像するしかないのですから・・。
相手の真意を想像し、それに応じた対応をするのがコミュニケーションの原則になります。
「怒ってないって!!!!!」
と言われて、
「それは良かった。じゃ早速お願いがあるんだけど・・」
とはなりませんよね?

さて、ここまでのお話でコミュニケーションで重要なのは、「言語能力」に限らないということを説明させていただけたかと思います。
もうお分かりだと思いますが、学校のテストで問われるのは「言語能力」に限定されています。
これが学校の「頭の良さ」と、仕事上での「頭の良さ」が区別されてしまう要因の二つ目です。
コミュニケーションにおける「想像力」の欠如は文系職の社会人としては致命傷です。
これがないと、いくら読解力を測る「国語」の成績が優秀でも、「頭の良い」人材とはみなされません。「国語」のテストではこの能力はほとんど測れないわけですから当然です。

ただ、「国語」の名誉のために申し上げておけば、それは必要なことなのです。
なぜなら、日本語という言語を正確に理解する力を育てるのが「国語」の勉強だからです。
言葉を正しく理解する能力があるという前提で、状況に応じて、その言葉の裏側も想像することも出来るというのが大人のコミュニケーション能力なのです。
ゆえに、「国語」の勉強を通じて「読解力」を高めることが無駄だという結論にはいたりません。
言葉を正しく理解出来てこそ、その先があるわけですから。
「国語」の勉強は今も昔と変わらず重要なのです。

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