日本人に「創造力」はない? [勉強の役割]


こんにちは。
今日は「発想力(≒創造力)」について考えてみたいと思います。
仕事をしていると、次から次へと普通の人が思いつかないようなアイデアを出す人がいますね。
社会に出ると、こういう人は一般的に「頭が良い」と認識されることが多いようです。
ところが、学校ではどうでしょうか?
学校のテストで「発想力」を問われることはあまりありませんね。
お決まりの解答にきちんと答えることが出来れば、それでOKです。
つまり「発想力」に関してはゼロでも、テストで高得点を取ることは可能なわけです。
5科の試験評価に関して言えば、「発想力」は除外して考えられている。
「発想力」を「創造力」と置き換えてもいいのでしょうが、ここは日本の学校教育における最大のウィークポイントのように思われています。
個性を重視する欧米の学校との違いだと・・・。
ゆえに日本人には「創造力」が欠けるといった議論にも結びつくことがあるようです。
さて、実際のところはどうなのでしょうか?
この答えは、「創造力」をどう定義するかによって異なります。
普通に考えるなら、今のところ、日本人の「創造力」は国際的に見て高い水準にあると言えます。
その根拠は「国際特許出願件数」です。
2009年の日本の特許出願件数は2万9802件で、これは世界第二位の水準です。一位はアメリカの5万3521件ですが、人口が日本の3倍近くあるので、それを考慮に入れると同じ土俵で比較は出来ません。
つまり、日本人は「創造力」豊かな国民なのです。
その割に、日本人は「創造力」に富んだ国民だというイメージはありませんね。
僕はその理由を以下の二つの原因と捉えています。
第一に、「斬新なアイデア」や「遊び心」の感じられる製品やサービスが少ないこと。
第二に、これは日本人の特質なのかもしれませんが、すでにあるものを改良したり、機能の付加をすることに強みがあり、新しいものを創り出すのは苦手だということ。
高度成長期には、車や家電など当時の先進諸国が作っていたものをそのまま追いかければ良かったのですが、それらの市場がすべて飽和状態になると、急に日本経済は停滞してしまいました。
その状態がかれこれ20年近く続いているわけですから、これは深刻な事態です。
「創造力」をそうした側面から見れば、日本人には創造力はないということになります。
これは、たしかに詰め込み型教育の弊害かもしれませんが、僕はまた別の意見も持っています。
それは、日本が島国であるということ。
ほとんどのアイデアというものは、ゼロから生み出されるわけではありません。
過去のパターンの新しい組合せや、意見と意見のぶつかり合いが偶然に生み出す産物なんですね。
つまり、ほとんどの発明は、一部の天才がぱっと思いついたものではないということです。
※天才的なひらめきに頼るしかないというのであれば、日本のものづくりの未来は(産まれるかどうかすらわからない)天才の登場に期待するしかないということになります。
斬新なアイデアが生まれやすい環境とはどんな環境か?
それは、先の条件に「多様性」が加わった環境だと僕は考えています。
一つの会議で例えるなら、人種も、信仰する宗教も、価値観も、受けてきた教育も、学科の専攻も全く違う人たちが一つの目的に向かって、好きなことを言い合う会議だと思うのです。
だとすれば、アメリカというのはまさにそういう国だと思いませんか。
電球、電話、自動車、冷蔵庫(製品化)、電子レンジ、洗濯機、パソコン・・・
考えてみれば、現代社会を取り囲む製品のほとんどはアメリカで産まれています。
それを小型化したり、使いやすくしたのは日本を初めとする世界中の国々ですが、アイデアそのものを生み出したのはアメリカです。
そうした発明を生み出す背景が「多様性」にあるとしたら、単一民族で人々の交流が少ない日本はこの点において大変不利な立場にあることになります。
昨秋ハーバード大学へ入学した日本人留学生は1名だという記事を新聞でよく目にしました。
内向き志向が今後ますます強まれば、世界中の人たちに歓迎されるような革新的な発明は、この国からは生まれなくなることでしょう。
日本の進化が「ガラパコス」と揶揄されるのもそんなところに原因があるように思います。
まぁ、それはともかく・・・
会社で日常的に求められる「創造力」は、歴史的な大発明を生み出すようなものではありません。
今あるものに、ほんの少しの工夫を加えた程度のアイデアで充分です。
生活様式を一変するような発明など、そう頻繁に生まれるわけではありませんから。
そういう意味では、先に述べた通り、「国際特許出願件数」の多い日本は優秀です。
しかし、少し心配な点もあります。
下のデータを見てください。

010.gif
資料:WIPO「Patent Applications by Office 1995 to 2006」

「国際特許出願数」のデータではなく、しかも古いデータで申し訳ないのですが、日本における特許出願件数が横ばい、そしてその他の国の件数が増加傾向にあることが読み取れます。
つまり、この点における国際競争力を失いつつあるんですね。
これに関しては、非常に強い危機感を感じています。
そして、そうなりつつある大きな原因の一つが教育です。
「読み・書き・そろばん」に代表される詰め込み型の教育が、日本人の「創造力」に大きく寄与していたと僕は考えています。
マイクロソフトのビルゲイツや、Appleのスティーブジョブスを育てるような教育制度は日本の風土や国民性に合っていないような気がするのです。
破天荒な型破り生徒を育てるやり方ではなく、日本人はあくまでも優等生型でいくべきだというのが僕自身の見解です。
すでにあるものを徹底的に磨き上げていくタイプの「創造力」ですね。
日本の芸事の世界には、「修(守)・破・離」という教えがあります。
世阿弥が生み出した言葉だと言われていますが、これは、先人の教えを忠実に修め(守り)、その教えに自分なりの工夫を加えて破り、最後に先人の教えから離れて独自の境地を開拓していくという意味です。
これこそ、日本式の発想力の磨き方です。
日本という国は昔からそういうことが得意なのです。
日本語という言語ひとつ見ても、それが分かります。
カタカナなんて、素晴らしい工夫ですね。
「可口可楽(コカコーラ)」なんてどう考えても使いにくいと思いませんか?
先人が平仮名やカタカナというものを編み出していなければ、今頃私たちは全ての外来語を漢字で覚えなくてはならなかったわけですから大変ですよ。
世界中の良いものをアレンジして、使いやすいようにしてしまうのが日本の強みなんですね。
こうした「創造力」の原点にあるのが、「修破離」です。
「修破離」において、特に重要なのが「修」の段階、つまり先人の教えを忠実に修めることとされています。
ものづくりなどにおいて、先人の教えを忠実に修めるとはどういうことでしょうか?
まずは学問の基礎を固めることですね。
学問の基礎とは何でしょうか?
このブログで何回も書いているとおり、「読み、書き、計算」です。
昔なら、「読み、書き、そろばん」です。
なぜそう考えるのかと言えば、歴史がそれを証明しているからです。
明治維新、高度成長期・・・。
貧弱な大地に、ほとんどの天然資源を持たない国が世界史上の奇跡を二回も演じました。
繰り返しになりますが、そうなった理由に日本の旧来型の詰め込み教育が大きく寄与していたことに僕は疑いを持っていません。
子供は「読み、書き(暗記力)、計算力」を徹底的に鍛えて、社会に出る日に備えるべきなのです。

話が広がりすぎてしまいました・・・。
今日は、学生時代の「頭の良さ」と社会に出てからのそれはなぜ実感がずれるのか?という事を「発想力」や「創造力」という観点から考えてみる予定でしたが、それは次回に行わせていただくことにいたします。

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