奇跡を起こす教育法 [ブログタイトルの由来]

6月28日

こんにちは。
今日は少しお話が脱線します。
「奇跡を起こす教育法」というブログタイトルの由来についてお話しなければいけないと思いました。
色々な意味で誤解を与えてしまっている気がしたので・・。
エピローグとしてお話したかったのですが、そうも言ってられないと思いました。
いつも読んでいただいている皆さんはこう考えておられるかもしれません。
別に「奇跡」でも何でもなくて、一般的な学習方法であると・・。
これはほぼ事実です。

私の考える「奇跡」とは中国の竹のようなものかもしれません。
(この竹は5年後に25メートルに育つのですが、4年間は土の中で成長を続けていて変化が全く見えません。
最後の一年で25メートル成長するのです)

あるいは、バケツの水のようなものかもしれません。
(水がたまっているかどうかは外からは見えないが、あるときから急にあふれ出す)

天才のひらめきのようなものかもしれません。
(ニュートンは木から落ちるりんごを見て、歴史に名を残しました)

いずれにしてもその一瞬だけで手に入れるような栄光ではないのです。
たとえ、幸運に恵まれて「奇跡」のような成功を手にしたとしても、最も不幸になるのは、
子供自身でしょう。努力の積み重ねのない成功は砂上の楼閣です。
時には愚直とも思えるような努力の積み重ねの先にしか、本当の意味での成功も幸せもありません。
なぜなら苦労する過程こそが人生なのですから。
いずれ裏技的な学習方法にも踏み込んでいきたいとは思っています。
かつての私は、そうした技術を学ぶことに熱心でした。
人一倍努力することが嫌いだった私は何とかして楽な道を歩いていこうと必死に色々な方法論を考えてきたのです。大学受験も偏差値を一年で40近く上げるために、ある種のテクニックを使ったことは否めませんし、偏差値30台の男子高校生をトップクラスの私大に入学させたこともあります。
でも、私にせよ彼にせよ、その先に待っていたのは、幸せでも何でもなかったのです。
そこにあるのは、ある種の虚しさでしかありませんでした。

このブログの勉強法はまずは王道を説いています。
それは、学問を極める近道はないと言う事を最初に知ってほしいからです。
基礎を学んだ上で応用の技を身につけるのは非常に効果的ですが、最初からテクニックだけを学んでも本当の実力は身につきません。
だからこそ当たり前すぎるくらいの「勉強法」から公開しています。
世の中の成功者達が実践してきた習慣などについても紹介しようとは思っています。
しかし、それはあくまでもおまけです。

このブログのテーマは、「原点回帰」です。
昔は誰でも塾に行けるわけではありませんでした。
学校すらなかった時代もあります。
そんなとき、生きる術を教えてきたのは他でもない父親と母親です。

時代は変わりました。
消費者は自分のニーズに合わせて、様々な商品やサービスを手に入れることが出来ます。
商品は手にとって確かめることが出来ますが、教育は無形財産です。
企業は消費者のニーズを敏感に察知し、「何が売れるか?」という視点で次から次へとマーケットに新しいサービスを提供しています。無責任で善悪の判断もつかないような情報がネット上を飛び交っています。
個別指導塾なんてどの塾も悪の巣窟のような書かれ様です。
実際はいい教室もたくさんあるにも関わらず・・。

ここに新しい問題が生まれました。
選択肢があまりに多過ぎるのです。
何もない
何でもある
本質的には同じことなのです。
こういう時代だからこそ、父親と母親に教育の主権を戻さなければなりません。
そうすることで教育の格差は是正されると僕は考えています。

子供の「奇跡」のような成長を願う気持ちは誰でも同じです。
しかし、その「奇跡」を願う気持ちを利用されるようなことがあってはいけません。
塾で働いていたからこそ、それがいかに簡単なことかよく分かります。
親の愛情は時に盲目的なのです。

両親のたくさんの愛情と少しの教育知識で、子供にいつか必ず「奇跡」は起きます。
そう信じているから「奇跡を起こす教育法」というタイトルになったのです。


nice!(4)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 4

コメント 0

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。